黒柳徹子の家系図まとめ!父親・母親から兄弟姉妹と昔の若い頃の写真も!
黒柳徹子の家系図がどうやらすごいようです。黒柳徹子の家系図には、職種が芸術や芸能関係に人間ばかりかと思いきや、元は医療関係者であったり、歴史的な有名文化人もいたりします。そんな複雑に絡み合った黒柳徹子の家系図について調査しました。黒柳徹子の昔の若い頃の写真なども用いながら、黒柳徹子の父親や母親、兄弟姉妹から伯父まで、人物像だけでなく、職業なども探っていきます。
目次
黒柳徹子の家系図がすごい

今回は黒柳徹子の家系図についてまとめました。特にミレニアル世代やそれより下の世代にとっては、いつまでたっても変わらない印象も黒柳徹子ですが、その家系図はどのようなものなのでしょうか。彼女の父親や母親はどのような人物像だったのでしょうか。また、黒柳徹子の家系図にいる兄弟姉妹はどのような人物で、何をしていたのでしょうか。
また、黒柳徹子の家系図は、家柄という点でも、職種という点でも、それぞれの人物とう点でもすごいことになっています。黒柳徹子自身について触れた後、家系図を見ながらそれらについて、黒柳徹子の若かりし頃の昔の写真なども照らし合わせてじっくり見ていきます。
すごい家系図を持つ黒柳徹子とは?

すごい家系図を持つといわれている黒柳徹子ですが、どういったものなのでしょうか。まずは、黒柳徹子のプロフィールから見ていきます。黒柳徹子は1933年8月9日生まれの、女優、タレント、司会者、声優、エッセイスト、平和運動家兼ユニセフ親善大使です。ニックネームはトットちゃん及びチャックです。

テレビ放送史を代表する人物の1人で、日本でのテレビ誕生から現在までレギュラー保持記録を継続して持ち続けています。黒柳徹子が女優業を目指したのは、昔、いつか子どもができた時に、絵本の読み聞かせや人形劇が上手にできるお母さんになりたいという願望があったからだそうです。また、現在は、「同一司会者によるトーク番組の最多放送世界記録保持者」としての記録を更新しています。

黒柳徹子の昔の写真が気になる!

黒柳徹子の昔の写真が話題になっています。というのも、画像にあるように、黒柳徹子の昔の容姿がとても美人だからです。女優デビューしたのは、1953年、20歳の時なわけですが、既に大女優の風格を醸し出しています。1971年、黒柳徹子は38歳の時に1年間、アメリカ・ニューヨークに留学しました。その時の写真ですが、40手前とは思えない若々しい美貌です。

黒柳徹子の美貌維持法

そんな美貌の持ち主である、黒柳徹子は、独自の健康法でその美しさを維持してきたようです。例えば、二度寝です。黒柳徹子は夜10時頃ベッドに入るのですが、夜中の2時過ぎぐらいに一度起きて、3時間程度のデスクワークをして、また寝るそうです。

他には、黒柳徹子は笑顔を絶やしません。これが一番の元気の秘訣のようです。そして、現代女子には考えられにくいですが、なんと黒柳徹子が若い頃からずっとノーブラなんだそうです。

また、運動やエクササイズ関係でいうと、1日2回、どんなに疲れていても、リフトアップ効果のあるフェイスマッサージをするそうです。これは誰でもできそうです。それに加え、雨の日も風の日も、毎日ウォーキングを30分〜1時間ほど行うようです。

もう一つすごいのが、80を過ぎても、ジャイアント馬場に教えてもらったヒンズースクワットを場所を問わず、毎晩50回やっているそうです。ここまでみると、ランニングなどの本格的なものだと続かなくても、ちょこちょこやるエクササイズだからこそ、毎日続けられるといえるでしょう。現代女子の生活にも参考にそうです。

最近、テレビ番組で40年来の遠距離恋愛をしていた明かし、現在まで独身の黒柳徹子ですが、昔は2、3度結婚を考えた時もあったそうです。しかし、タイミングが合わなかったため、結婚せずに現在に至るようです。

黒柳徹子の母親の家系図もすごい
黒柳徹子の母方の家系図がすごいことになっています。それについて調べました。黒柳徹子の母親である黒柳朝(くろやなぎちょう)は、1910年9月6日生まれで、2006年8月16日に、95歳で亡くなっています。北海道出身で、1927年に東京音楽大学声楽科に入学しています。その後は随筆家として活動していました。
当時は女性が進学のために上京するのが非常に珍しいことだったことから、黒柳朝の実家は、昔から由緒ある家柄だったことがわかります。また旧姓は門山(かどやま)です。家族構成は、父と母以外に、弟が1人いました。門山修二という人物です。門山修二は医師の道に進みませんでした。
黒柳徹子の母方の家系図

黒柳徹子の母親である黒柳朝は、北海道空知郡滝川村です。現在は滝川市ですが、昔はまだ医療機関もない、農家ばかりの村だったようです。そんな場所に病院をつくるため、黒柳朝の父親である門山周通(しゅうつう)が移住したようです。

門山周通の家系図を見ると、代々医師をやっている家系だったようで、松山藩の家臣をやっていたそうです。そのため、門山周通の娘である朝には医師の婿を取る予定だったそうです。しかし、朝は、進学先の東京で出会った黒柳守網と結婚します。

黒柳徹子の母親の経歴
黒柳朝が生まれた後、朝の母親(つまり黒柳徹子の母親の祖母)の門山三好は、仙台にある女学校で再入学することのなったので、黒柳朝もいっとき、仙台に住んでいた過去があります。

門山三好
黒柳朝は岩見沢高等女学校に進学し、寄宿舎で生活をスタートさせます。実家のある滝川村から50kmほどのところにある学校を選んだ黒柳朝ですが、その後、東京音楽大学声楽科に進みます。
家系図で見る、黒柳朝の家族構成
黒柳徹子の母親である黒柳朝は、上京した後に、結婚、5人の子どもをもうけます。家系図には、長男・明児(めいじ)、次男・紀明、長女・徹子、次女・眞里(まり)、三男・貴之(たかし)の三男二女という兄弟姉妹構成です。しかし長男である明児は、幼少期の頃に敗血症で他界しています。
黒柳徹子の母親・朝の晩年は?
黒柳朝の夫であった守綱は、戦争に出たものの、生きて帰ってくることができました。そして、黒柳朝が73歳の時に他界しました。その後の黒柳朝は、アメリカで講演するどころか、カリフォルニアに居住までするというアクティブな老後を過ごしたようです。

95歳になり、黒柳徹子が、黒柳朝が100歳になったらインタビューをして出版したい意志を告げると、すぐにやるように言われたようです。そして、インタビューを終えた数ヶ月後に黒柳朝は亡くなったようです。

黒柳徹子の家系図を探ろう!
黒柳徹子の家族構成だけ見てもその家系図のすごさがわかります。そして、詳細には、黒柳徹子は黒柳朝と守綱の間の最初の子どもとして生まれたので、兄弟姉妹構成ははみんな弟と妹ということになります。ちなみに昔の日本では、兄弟姉妹が5人もいるのは平均的だったようです。
黒柳徹子の家系図にいる兄弟姉妹
黒柳徹子の弟・黒柳紀明

黒柳徹子の兄弟について紹介します。1940年に生まれた黒柳紀明は、黒柳徹子と7歳離れています。両親である黒柳朝と黒柳守網が音楽家であったため、黒柳紀明もその道を目指し、桐朋女子高校音楽科卒業後、桐朋学園芸術短大へと進学しました。
混乱している方もいるかもしれませんが、当時の桐朋女子高校では、紀明以外にも少なからず男子学生が勉学に励んでいたようです。短大を卒業後、黒柳紀明は、NHK交響楽団や読売日本交響楽団などで、ヴァイオリン奏者として在籍していました。

黒柳徹子の姉妹である黒柳眞里は?

黒柳徹子の姉妹はどうなのでしょうか。黒柳徹子の姉妹である黒柳眞里は1944年生まれで、黒柳徹子とは11歳差です。黒柳眞里は、幼少期からバレエを習っており、チャイコフスキー記念東京バレエ学校でで学び、バレエに没頭した生活を送っていたため、香蘭女学校を中退しています。その後、ボリショイ・レニングラードバレエ団でバレリーナとして活動していました。

しかし、19歳の時に怪我を負ったため、退団してしまいました。また、黒柳徹子の姉妹の黒柳眞里は、後のプロ野球選手・当時の慶應大生の井石礼司と慶応大学のパーティーで出会い、20歳で結婚し2人の子どもを設けます。しかしその後、39歳で離婚しています。離婚後は、美容学校に入学し、美容師資格を得た後は、北海道で美容家として活動しているみたいです。

黒柳家の末っ子・貴之
最後に、黒柳徹子の一番下の兄弟はどういった人物なのでしょうか。黒柳徹子の兄弟の末っ子・黒柳貴之は1957年生まれです。黒柳徹子とは24歳ほどの年の差です。あまり情報はないことから、兄弟姉妹のように芸能界には入らず、一般人として生活しているようです。
黒柳徹子のすごい家系図を生み出した実家

5人兄弟姉妹、家族7人という構成で、世に影響力があったり、たぐいまれなプロとして出世したりした人物を家系図に生み出した黒柳徹子の実家は、現在の東京都港区赤坂で、乃木坂で知られているところです。しかし、黒柳徹子が生まれた後、一家は大田区北千束に引っ越したので、黒柳徹子でそこで育ちます。
黒柳徹子の家系図探り・父親は?

黒柳徹子の父親である黒柳守綱は、1908年、東京生まれです。黒柳朝の実家の家系図で見たように、黒柳徹子の父親の黒柳守綱の実家もまた、医師の家系だったようです。黒柳守綱の父親(黒柳徹子の父方の祖父)は田口潔矩という名前で、医師であった一方で、カトリック本所教会の長老でもありました。

しかし、黒柳徹子の父親・黒柳守綱が8歳の頃に彼の父親の田口潔矩は他界したため、兄弟の田口修治とともに、黒柳家の養子になり、12歳で呉服屋で働き始めます。黒柳徹子の父親である黒柳守綱は、三井呉服店(現在の三越)に入り、ヴァイオリンを習い始めます。そして後に、NHK交響楽団などでヴァイオリン奏者としての活動に至りました。
黒柳徹子の家系図にいるすごい人物
ここまで見ても十分すごい、黒柳徹子の家系図ですが、その家系図のすごさは親戚にまで広がっています。特に、芸能や芸術に関わった人が多くを占めています。例えば、黒柳徹子の父方の伯父である田口修治(黒柳守綱の兄弟)は、映画監督やプロデューサーとして活動しました。

そして、黒柳徹子の母親の方の祖父のいとこ(門山周通のいとこ)は、村山槐多(むらやまかいた)という洋画家の父親だったようです。また、詩人の北原白秋も、黒柳徹子の遠い親戚のようです。

黒柳徹子の家系図にいる田口修治とは?

黒柳徹子の伯父であり、黒柳守綱の兄弟である田口修治について少しまとめます。田口修治は、1905年生まれで、上記した映画監督やプロデューサー以外にも撮影技師でもありました。1948年にシュウ・タグチ・プロダクション株式会社を設立し、ドキュメンタリー映画を中心に制作に励んでいました。
黒柳徹子の叔父・門山修二の詳細

黒柳徹子の母の弟(黒柳徹子の叔父)である門山修二は、早稲田大学を卒業後、昔の日刊新聞社「萬朝報(よろずちょうほう)」で記者として働いていました。1929年、東京証券取引所理事長の依頼により、日本初となる株の経済専門新聞・「経済日報」を発刊しました。また、1932年、北海道から上京し、早稲田高等学院に入学し、出征、9年の歳月を経て、早稲田大学政経学部を卒業しました。

また、帝国鉱業開発に勤めた後、中国へ中支派遣軍の兵士として再び出征しました。戦後は、門山修二は、青森県高館で米軍通訳として活動しました。1956年、また上京し、「経済日報」に入社し、1965年に社長として就任しました。
黒柳徹子の妹・眞里が結婚した相手

黒柳徹子の妹・黒柳眞里の結婚相手であった井石礼司についてまとめました。「ゴルフプラザ72」の役員であり、外野手として、1965年〜1968年には東京オリオンズで、1969年〜1971年にはロッテオリオンズで、そして1972年〜1973年には広島東洋カープで活躍しました。大阪教育大平野中学校から天王寺高校へ進み、慶應義塾大学に進学したそうです。

中学生時代は、部活を掛け持ちしていて、陸上部と野球部に所属していたようです。しかし、高校に進学すると、野球に専念しました。大学1年生の秋に、ピッチャーから外野手に転向し、2年生の秋ではベンチ入り、3年生の秋にレギュラーになりました。しかし4年生の秋のシーズン前に、プロと二重契約しているという嘘を週刊誌に書かれ、退部しました。

そして卒業後に東京に入団しました。1973年に退団した後は、井石礼司の義理の兄が経営する「ゴルフプラザ72」というゴルフショップで、常任兼新橋店長として働きます。

黒柳徹子すごい家系図まとめ
黒柳徹子の家系図をまとめました。先祖代々は医療系の職業であったものの、黒柳徹子の両親の代あたりから、芸能界や芸術界に進んでいる人が多くみられました。それもただの文化人ではなく、国際的なバレリーナであったり、プロのヴァイオリン奏者であったり、映画界や当時のメディア界の先駆けとなった人物でした。
また、黒柳徹子の若かりし頃にも触れました。かなりの美貌の持ち主で、独自の健康法はその頃からやっているようでした。現在、80過ぎとは思えない元気さで、芸能界を引っ張り続けられているのも、こういった毎日のちょっとしたエクササイズのおかげでしょう。これからも、いきいきとした姿勢と絶やさない笑顔で視聴者を楽しませてくれるでしょう。

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