黒柳徹子の父・黒柳守綱と母・黒柳朝について!両親の馴れ初めや仕事は?
今なお現役で独特な個性で人気の黒柳徹子。徹子の部屋と言うと、日本人なら誰でも口ずさんでしまう曲と共に今日も変わらず放送されています。そんな黒柳徹子は、年齢を感じさせないパワフルな活躍で最近様々な事で注目されています。その中に、黒柳徹子の父と母についての話があります。父と母の出会いや馴れ初めなどのエピソードが、あまりにもドラマチックなのです。黒柳徹子の父と母について詳しくご紹介していきましょう。
目次
黒柳徹子の父と母は一体どんな人?
玉ねぎヘアーで有名な黒柳徹子。今なお現役で活躍している黒柳徹子は、私生活は謎に包まれており年齢を感じさせないパワフルな活動と、さらにはちょっと毒舌混じりの確信についた発言で最近また注目を集めています。お馴染みの徹子の部屋では、誰でも口ずさんでしまうほど定番となったテーマソングと共に今なお変わらず放送されています。
そんな黒柳徹子の話題の中で、最近特に注目されているのが黒柳徹子の父と母についてです。黒柳徹子の父と母は、誰しもが憧れてしまうようなドラマチックな出会いと馴れ初めで結ばれています。また、黒柳徹子の母である黒柳朝はエッセイストとしても活躍しており、ドラマ化された著書の著者でもあります。一体どんな父と母なのでしょうか。
そこで今回は、黒柳徹子の父と母について詳しくご紹介していきましょう。黒柳徹子の父と母の出会いや馴れ初め、また、父と母の名前や仕事などについてもご紹介していきます。黒柳徹子に様々な影響を与えたとされている父と母を知れば、今よりも黒柳徹子がさらに魅力的に感じてしまいます。母の黒柳朝の出版した著書についても紹介していきます。
黒柳徹子とは
黒柳徹子とは、芸歴もとても長く実に様々な面で活躍するグローバルな人物です。その為、黒柳徹子の肩書はたくさんあります。女優やタレントやエッセイスト、声優から司会までこなすなど芸能界での活動は様々あります。さらにはユニセフの親善大使を務めており、平和運動家としても活躍をしています。最近では、若者に人気のインスタグラムを始めて注目されています。
黒柳徹子は、1933年産まれで2018年現在でなんと御年86歳と推測されます。その為、日本でテレビが誕生した当時から活躍する先駆けのタレントでもあり、同一司会者によるトーク番組の最多世界放送記録保持者として現在も記録を更新しています。その番組とは、お馴染みのテーマソングで黒柳徹子と言えばとも言える番組、徹子の部屋です。
黒柳徹子は最初女優としてデビューしています。デビューのきっかけは、意外にも母親になった時に子供に絵本の読み聞かせをしたかったからなんだそうです。テレビが誕生した翌年には女優としてデビューしており、その後はラジオや声優としても抜擢され多忙を極めていきます。その後、一度ニューヨークに留学し、帰国後から徹子の部屋を始めています。
父と母の名前は?
黒柳徹子については、現在もテレビなどで活躍しているのでその姿を見る事は出来ます。ここからは、黒柳徹子の父と母について画像と共に見ていきましょう。まずは、気になる父と母の名前についてです。黒柳徹子の父は、黒柳守綱(くろやなぎもりつな)です。黒柳徹子の父は、早くに父親を亡くしており12歳の頃から仕事を始めている苦労人でもあり努力家です。
そして、黒柳徹子の母は黒柳朝(くろやなぎちょう)です。黒柳朝と言うと、実は黒柳徹子と同様にエッセイストとして活躍していたのでご存知の人も多いかもしれません。画家で詩人でもある村山槐多をはとこに持っています。門山家と言う家柄の長女として生まれており、代々松山藩の家臣を務めている家系です。その為、山形県に重要な関わりを持っています。
黒柳徹子の愛称はトットちゃん!父や母にも?
黒柳徹子の父と母の出会いや馴れ初めについて見ていく前に、愛称について少しお話しましょう。黒柳徹子を語る上で重要なのが、実は愛称です。これには理由があり、画像でも分かるように黒柳徹子と黒柳朝はエッセイストとして出版している本のタイトルには愛称が含まれています。ドラマなどにもなっており、黒柳徹子を語るにはとても重要なのです。
黒柳徹子の愛称は、トットちゃんやチャックです。チャックについては不明ですが、トットちゃんについては自身が出版したエッセイ「窓際のトットちゃん」でタイトルにもなっている事が画像でも分かります。実は母である黒柳朝にも愛称があり、チョっちゃんと呼ばれています。こちらも自身の著書「チョっちゃんが行くわよ」でタイトルになっています。
黒柳徹子の父と母はドラマチックな出会い!
さて、いよいよ黒柳徹子の父と母の出会いについて見ていきましょう。黒柳徹子の父と母の出会いを語るには、実は2人の仕事が欠かせません。当時、黒柳徹子の父はバイオリニストの仕事をしています。なんと、その仕事は現在のNHK交響楽団の前身と言える新交響楽団のバイオリニストだったそうです。黒柳徹子の父は、第1バイオリンの首席奏者も務める腕前だったそうです。

黒柳徹子の母である黒柳朝は、当時まだ学生だった為仕事はしていません。しかし、在学していたのが東京音楽大学の声楽科だったそうです。その為、鑑賞に訪れたコンサート会場で2人は出会ったのです。そしてその時演奏されていたのが、ベートーベンの第九交響曲、別名歓喜の歌です。何とも、2人の出会いを祝福しているかのような組み合わせです。
すぐに結婚⁉黒柳徹子の父が母にしたプロポーズとは
最初に声を掛けたのは、父とされています。コンサートが終了した後、会場で黒柳朝にお茶に誘ったそうです。その時、黒柳朝は二つ返事で誘いを受けます。画像でも分かるように、黒柳徹子の父と母は整った顔立ちをしているのが分かります。2人はお互いの外見を既に気に入っていたのでしょう。そのまま2人は、現在の乃木坂にあった喫茶店に行きます。
実は、その喫茶店は黒柳徹子の父が二階に住まいを借りていた喫茶店だったのです。2人はお互いを知っていくうちに帰るのが惜しくなっていき、そのまま父からの僕の所に来る?と言う話から結婚まで発展するのです。何とも、積極的とも言える押しの強いプロポーズです。そして、黒柳朝もその誘いを受けて結婚してしまいます。その後、すぐに黒柳徹子が産まれています。
戦時中だった為に黒柳徹子の父は母子と離れて戦争に
父と母が結婚するまでにはあまり時間がかかりませんでしたが、実はこの後2人はしばらく離れる事になります。と言うのも、第二次世界大戦が始まってしまうのです。黒柳徹子が誕生した6年後、日本は第二次世界大戦に突入します。当時、赤紙と呼ばれた戦争への召集が若い男性や戦える男性を中心に配られます。黒柳徹子の父も、戦地へと赴く事になるのです。

召集がかかるまでは、黒柳徹子の父は変わらずバイオリニストとしての仕事をしていました。その後1944年に戦争へと召集される事となり、満洲に派遣されしばらく家族と離れる事となります。戦地へ赴いた後も実はバイオリニストとして現地で仕事をする事もあり、戦争が終着を迎えるまで戦いながらもバイオリニストとしても活躍をしていたそうです。
父と離れている間の母は偉大!黒柳徹子達を必死で育てる
黒柳徹子の父が戦地に召集された後、黒柳徹子を含む兄弟を育てたのが母である黒柳朝です。東京大空襲をきっかけに、一家は青森県へと疎開します。疎開先では、子供達との生活を支えるために裁縫の仕事をしています。さらに、子供の人数も多かった為に行商の仕事も一緒に行っていたそうです。お嬢様育ちだったにもかかわらず、逞しい母の姿を感じます。

行商の仕事では、青森県の特産品を東京に行っては売り、空いたカゴに今度は東京で買った当時では貴重品でもあるチョコレートや洋服などを入れて帰ってきて、それを青森県で売ると言うハードな仕事をこなしていたそうです。この仕事はしばらく続けられ、戦争が終着を迎えてから東京に戻り、貯めたお金で家を買うほどに蓄えていたそうです。
黒柳徹子の父は戦死じゃなかった!無事母子の元に帰還

戦争に召集されていたと言う事もあり、黒柳徹子の父は戦死ではとされた噂もあります。しかし、黒柳徹子の父は戦争が終わってからしばらくして無事に帰還しています。帰還するまでにしばらく期間が空いているのは、終戦後にソ連に抑留されていた為とされています。これは、当時新聞でもソ連によってシベリアに抑留されていると報道されています。
抑留中の黒柳徹子の父は、沿海州楽劇団として日本軍捕虜収容所の巡回、慰安と言った仕事をしていたそうです。終戦後も、バイオリニストとしての仕事をしていたのです。1949年に帰国し、さらにその後も人生を終えるまで音楽の仕事を貫き通し、1983年に心筋梗塞で亡くなっています。この訃報は、黒柳徹子が徹子の部屋を収録する直前に伝えられました。
黒柳徹子の母はエッセイスト!本から父を知る事も
黒柳徹子の母である黒柳朝は、行商の仕事をしながら家族を支え1982年にはエッセイストとして活動を始めます。エッセイストとは、本人の経験や知識から感じた事を著書として出版する人の事で、随筆家とも呼ばれます。黒柳朝は、自身の経験談をエッセイにまとめており、1982年に自伝となる画像の「チョっちゃんが行くわよ」の連載をスタートします。
この「チョっちゃん」はシリーズのように何作か出版されており、一躍エッセイストとしての黒柳朝の地位を確立させます。ベストセラーとなり、NHK連続テレビドラマ小説「チョっちゃん」としてのドラマ化もされています。エッセイストとしての活動は心不全で亡くなる直前まで続き、2006年に惜しまれながら亡くなっています。
グローバルな黒柳徹子の性格は父と母譲り?
黒柳徹子は、最初にご紹介した通り平和運動家としてグローバルに活躍されています。ユニセフの親善大使として海外で活動する姿も見られていますが、黒柳徹子がこのようにグローバルなのは実は父と母から譲り受けた性格なのかもしれません。と言うのも、母である黒柳朝は講演旅行をしながら在留邦人や協会への奉仕活動をしていたのです。
また、父の活動を振り返ってみても、戦争で赴いた海外の地でも意思を貫き通し生涯音楽活動を続けています。活動の地を定めず、グローバルに様々な地で活動する姿は父と母から譲り受けた性格なのかもしれません。また、自分の限界を定めずに様々な事に挑戦する姿は、戦時中に家族を支え続けた母の姿から影響を受けたのかも知れません。
黒柳徹子のインタビューが母の最後に
黒柳徹子の母が亡くなる直前、黒柳徹子が母に対してインタビューしていた逸話があります。黒柳徹子は、お馴染みの徹子の部屋で様々な人物にインタビューをしています。その中で、ふと母にインタビューした事がない事を思い出します。母も著名人である事から、黒柳徹子はじきに100歳を迎える事を考えてその時にインタビューしてもいいか母に問います。
それについて、母は了承しますが早い方が良いのではないかと提案するのです。そこで黒柳徹子は急遽母へのインタビューを考え、実行します。その時インタビューした事は、「チョっちゃんはもうじき百歳」と言うタイトルで本となっています。この本が完成した直後、母は亡くなっています。その翌月出版された本は、母と黒柳徹子の思い出の大事な著書となります。
父や母のように黒柳徹子も結婚を考えた時期があった!
黒柳徹子の若い頃の画像を見てみると、両親譲りの美貌の持ち主だった事が分かります。黒柳徹子も、父と母のように結婚した事はないのでしょうか。実は、黒柳徹子は結婚歴は無いものの結婚を考えた事はあるそうです。画像のように、スタイルも抜群で整った顔立ちをしているのを考えると、やはり世の男性は放っておかなかったのでしょう。

最初に黒柳徹子が結婚を考えたのは22歳の頃、相手の結婚への概念により結婚する事を諦めています。次に結婚を考えたのは30代前半、外人と遠距離恋愛をしていたそうで、実に40年ほどその関係は続いたそうです。しかし、お相手の男性が亡くなってしまった為、現在も未婚のままなんだそうです。画像のような美貌だったにもかかわらず未婚とは、驚きます。
黒柳徹子の今後は?
父と母の影響を受けて育った黒柳徹子ですが、今後はどうなるのでしょうか。現在も徹子の部屋で活躍する他にも、様々なレギュラー番組や司会者としてメディアに登場しています。これを考えると、生涯現役で頑張る姿を見ていけるのではないかと推測されます。テレビの誕生から活躍する、日本のテレビ史には欠かせない人物なので今後も活躍に期待が出来ます。
また、最近では若者に人気のインスタグラムを始め、アップされる画像も話題になっています。インスタグラムには、普段あまり見聞きする事のない黒柳徹子の私生活が画像としてあげられています。画像と共に添えられている長文コメントも話題となっています。インスタグラムの画像を見ながら、黒柳徹子の私生活を垣間見てみるのも楽しいかも知れません。
父や母の影響も!今後も元気に活躍していく事に期待
黒柳徹子は、今なお現役で活躍する個性的な人物です。その父と母の出会いや馴れ初め、生涯を知ると、今の黒柳徹子へと影響していた事が良く分かります。著書がドラマにもなり、再び注目されているので、気になった人はドラマや著書を見てみましょう。様々なドラマに、感動してしまいます。
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