松島トモ子の現在は?ライオンとヒョウに噛まれた衝撃の事件とは?
女優でありながら、テレビで体当たりなバラエティ番組にも出演していた松島トモ子。その松島トモ子の体当たりな挑戦はついに、ライオンとヒョウに噛まれるという大事件を起こしてしまったんです。そんな松島トモ子の当時の画像は現在でも、衝撃の画像として紹介されることが多いですよね。そんな松島トモ子は現在は当時のライオンとヒョウに噛まれたテレビの事件をどのように振り返っているのでしょうか。
目次
- ライオンとヒョウに襲われた松島トモ子の現在とは
- 松島トモ子のプロフィール
- 松島トモ子は幼少期はバレリーナとして有名に
- 戦後間もない中での松島トモ子の活躍
- 歌手としても松島トモ子は活躍
- 松島トモ子は渡米も経験しミュージカルにも挑戦
- 松島トモ子がレポーターの仕事をしたきっかけ
- アメリカ留学が松島トモ子を高飛車にしてしまった
- 松島トモ子がライオンとヒョウに襲われる
- ライオンは人間には慣れていたのだが…
- まさかの松島トモ子はヒョウにも襲われる
- 松島トモ子はライオンとヒョウに襲われても生還した
- 松島トモ子の生還は学会で発表されるほどのものに
- 松島トモ子の「それでも動物が好き」は話題に
- 松島トモ子の画像は伝説に
- 現在の松島トモ子の活動と画像
ライオンとヒョウに襲われた松島トモ子の現在とは
現在では「世界の果てまでイッテQ!」のような体当たりチャレンジ番組は、テレビの中では珍しいものになりました。

しかし、一昔前では、テレビで非常に危険な内容を扱うテレビ局が多かったんです。その中では、世界の果てまでイッテQ!以上に危険な内容が放送されていたんです。

その中で、命にかかわるようなハプニングが起きたことは一度や二度ではなかったんです。そんなテレビのハプニングの中で、現在も話題になるのは、女優の松島トモ子がライオンとヒョウに噛まれるという事件だったんです。

そのときの画像は現在も、たびたびテレビで紹介されるほどの大きなハプニングでした。現在の松島トモ子は、そういったライオンとヒョウに襲われてから、無事復帰しているのでしょうか。
松島トモ子のプロフィール
松島トモ子は1945年7月10日生まれの72祭です。本名は松島奉子で、歌手や女優として活躍した人物です。また、現在は、日本芸術専門学校の特別講師という肩書もあるようです。
実は松島トモ子は満州奉天生まれで、東京都目黒育ちなんてです。学歴としては目黒区立東根小学校を経て、大東学園高等学校を卒業しているようですね。

松島トモ子は幼少期から波乱万丈とも言える生い立ちを経験しており、生後間もなく満州国からの引き上げを体験しています。

そのため、松島トモ子の本名である「奉子」は、生まれた奉天が由来のようです。そして、松島トモ子は3歳のころから石井漠舞踊研究所に入門し、バレエを始めたそうです。
松島トモ子は幼少期はバレリーナとして有名に
映画館の劇場ニュースにsて、石井漠門下の子供たちが「小さな豆バレリーナ」として取り上げられたところ、そのときに映っていた松島トモ子を、阪東妻三郎がスカウトしたんです。

松島トモ子は1949年に芸能界デビューし、東映映画「獅子の罠」に出演しているんです。その後も、嵐寛寿郎の時代劇「鞍馬天狗」や三益愛子との「丹下左膳」、江利チエミとの「サザエさん」など多くの映画に出演しているんです。

そういった松島トモ子の活動の中で、1950年11月19日に、舞踊家の石井漠らと共に、巣鴨プリズン所長・鈴木英三郎に、刑務所近くにある米軍専用の劇場に招かれているんです。
戦後間もない中での松島トモ子の活躍
このイベントで、司会を三井物産のタイのハジャイ出張所所長であった松島トモ子の父、高橋健についても触れられ散るんです。実は松島トモ子の父親は、満州奉天で召集を受けた後に、シベリアに抑留され生死も不明だったんです。

そのため、松島トモ子と母親は二人でかろうじて帰国できたことが紹介され、会場は静まり返ったそうです。また、松島トモ子の父親は後に、ナホトカ郊外の収容所で1945年10月29日に亡くなっていたことが発覚しています。

このような紹介がなされたあとに、松島トモ子は法被姿に鉢巻きをして、その特徴的な大きな目で、当時はまだ5歳の松島トモ子が現れたんです。そして、洋舞「かわいい魚屋さん」を踊り、並んだ1千名の戦犯らは涙を流して感動し、何度もアンコールが起きて、松島トモ子らもそれに応えたそうです。
歌手としても松島トモ子は活躍
松島トモ子は、童謡歌手として、米山正夫門下となり、1953年にコロムビアより「村の駅長さん」でデビューしています。
その後も、「風に揺れるレイの花」や「三匹の子豚」、「雨に唄えば」などを歌い、映画の主題歌なども担当しました。
何よりも松島トモ子の活躍の中では、少女雑誌「少女」で表紙を10年間一人で務めたことがポイントといえますね。また、芸能雑誌「平凡」でもグラビアモデルを務めるなど、松島トモ子は戦後の日本の華といえる存在だったわけです。
松島トモ子は渡米も経験しミュージカルにも挑戦
松島トモ子は、大東学園高等学校卒業後は、ミュージカルを勉強するために渡米も経験しています。そして、ザ・マスターズ・ハイスクールに2年間留学し、マーサ・グラハムのダンススクールから、奨学金をもらって研修も経験しています。

帰国後は、ミュージカルを中心に、ラジオやテレビのパーソナリティを務め、石垣食品のミネラル麦茶のCMや「ひょっこりひょうたん島」の声優などでも活躍をしています。

ちなみに、松島トモ子のマネージャーは3歳でデビューしてから母親が務めていたそうです。
松島トモ子がレポーターの仕事をしたきっかけ
しかし、幼い頃から芸能活動を行っていた松島トモ子は、やはり学業と芸能を両立することは大変だったようです。よく、早退や遅刻をしていたようで、家に家庭教師を呼んで、勉強を補っていたそうです。
しつけの面では、松島トモ子の祖母が厳しく行っていたようで、成績が落ちるようならテレビなどの仕事を辞めるように言うなど、大好きな芝居の仕事を続けるために、勉強も頑張っていたようですね。

ところが、アメリカに留学から帰ってきた松島トモ子は、帰国後1ヶ月もしないうちに、その祖母が突然亡くなってしまったんです。
アメリカ留学が松島トモ子を高飛車にしてしまった
この留学の帰国も、祖母が一度顔を出すようにという風に一時帰国だったものなのですが、祖母が亡くなったこともあり、ニューヨークに帰るわけにはいかず、日本で2年数ヶ月ぶりに日本で芸能活動を再開したんです。

しかし、松島トモ子の頭の中はすでにアメリカナイズされており、自分で何でもできるような気持ちになってしまっていたそうです。その自分に対してやってくるオファーは、過去の自分をイメージしたかわいらしいものばかりで、生意気になっていた松島トモ子はそんなオファーに反発してしまったそうです。

そういった中で、自分の中で転換期だと考え、劇団四季の研究性を経験したものの、自分がどこに向かえば良いのかわからなくなってしまったそうです。
そして、松島トモ子は、さまざまな壁にぶつかった中で、海外のレポーターという仕事に巡り合ったんです。そのことが、松島トモ子が改めて仕事を楽しめるという気持ちを取り戻させてくれたそうです。
松島トモ子がライオンとヒョウに襲われる
松島トモ子は1986年に「NTTアワー TIME21」の撮影でケニアを訪れます。そして、なんとこのときに、松島トモ子は10日の間にライオンとヒョウに立て続けに2度襲われてしまったんです。
この事件は日本のテレビで何度も報道され、松島トモ子は帰国後にギブス姿で記者会見をし話題になったんです。

この事件の概要は、同年1月28日に「野生のエルザ」の作者であるジェイ・アダムソンの夫である、ジョージ・アダムソンと共に、ナイロビのコラ動物保護区でエルザの子孫で、ジョージによりラクダの肉で餌付けされた、人に慣れたばかりの雌ばかりの7頭のライオンの群れと接触することになります。
ライオンは人間には慣れていたのだが…
松島トモ子は、そのとき、小ライオンと戯れいてたのですが、ジョージがキャンプとの無線で、松島トモ子と小ライオンたちから目を離してしまったんです。

そして、松島トモ子は、その子ライオンの母親に襲われてしまって、首や太ももに全治10日の怪我をおってしまったんです。

不幸だったのは、ジョージが耳が遠かったため、松島トモ子を助けに行くのが遅れてしまったことも重なってしまったそうです。また、ジョージが松島トモ子を助けたときに、まわりにも複数のライオンが居たのですが、松島トモ子らを襲うことはなかったようです。
まさかの松島トモ子はヒョウにも襲われる
問題だったのは、松島トモ子はこのハプニングで治療を受けて、テレビのロケを完全に辞めなかったことだといえます。
松島トモ子は、治療後に再び別の動物保護区を訪れて、万全の体制でロケに挑むんです。これは事故から10日後の出来事で、保護区のスタッフで責任者のトニー・フィッツジョンと共に、この保護区で飼育されている雌ヒョウのコムンユを見ることになったんです。
この施設は周りを高い作で囲われた施設で、施設の外に出たところ、そのヒョウが夜陰に乗じて、柵を飛び越えて待ち伏せていたんです。

そして、松島トモ子はそのヒョウと目を合わせてしまったことで、松島トモ子に体当たりで襲いかかってきたんです。

このとき、松島トモ子はヒョウに地面に倒されて、首を噛みつかれてしまったんです。そして、そのままヒョウに持ち上げられてしまって、骨がガリガリとかじられてしまう音が聞こえたそうです。そのときに、松島トモ子は死を覚悟したそうです。
松島トモ子はライオンとヒョウに襲われても生還した
では、松島トモ子はなぜこのようにヒョウに襲われてしまったのでしょうか。ここには、ヒョウがとても嫉妬深い動物であるということがポイントだったんです。

どうやら、ヒョウの飼い主であるトニーの横にいる松島トモ子が、松島トモ子と親しくしているように見えたことから、ヒョウが嫉妬して、松島トモ子を襲ってしまったようなんです。

大きな怪我を負った松島トモ子は、救助隊に緊急ヘリを要請したものの、夜間飛行は危険であると拒否されてしまったんです。そのため、なんと朝まで止血しながら耐えるという羽目になってしまったんです。
やっと朝になり救急ヘリで搬送された松島トモ子は、病院で第四頚椎粉砕骨折と診断されます。もし、ヒョウが松島トモ子に噛み付く位置が、あと1ミリでもズレていたら松島トモ子は死んでいたと言われているんです。
松島トモ子の生還は学会で発表されるほどのものに
松島トモ子は、この第四頚椎粉砕骨折は後遺症を残すこと無く無事生還したのですが、これは奇跡的なことだったと言われています。

というのも、第四頚椎粉砕骨折は高確率で死亡するような怪我であり、もし生還しても、首から下が動かなくなるほどの後遺症が残ることが多いそうです。

そのため、松島トモ子が奇跡的に後遺症もなく生還した症例は、ニューヨークの学会で発表されるほどの奇跡だったんです。
松島トモ子の「それでも動物が好き」は話題に
実は、松島トモ子はライオンとヒョウに襲われたものの、その後も撮影を続けて2月17日に帰国しました。そのときの会見画像を見たことがある人も多いかもしれませんが、コルセットをつけて痛々しい松島トモ子の画像を覚えている人も多いかもしれません。

松島トモ子は、記者会見の中で、ライオンとヒョウに襲われた九死に一生を得たものの、それでも動物が好きであるとして、大きな話題になったんです。

また、撮影された映像や画像は、その後の3月31日に「それでも私はライオンが好き」と題して「TIME21」の中で放送されたんです。
松島トモ子の画像は伝説に
ちなみに、現在もネタにされることが多いこのときの画像ですが、当時の松島トモ子は、この出来事をテレビなどで面白おかしく扱われるのは、とても笑えるものではなかったようですね。
仕事に復帰するのにも時間がかかかり、復帰してからも松島トモ子にとってはタブーとして直接話題にされるのはNGだったようです。事件を笑って話せるようになったのは、20年ほど経ってからのことだったそうです。

実際に、現在の松島トモ子は、とあるバラエティ番組で「ライオンと2ショットを撮る」という仕事をオファーされて、松島トモ子はそのオファーを受けてくれるのかという企画が行われたこともあるんです。そして、実際に松島トモ子は、そのオファーを受けて、またライオンと2ショット画像を撮影しているんです。
そのとき、ライオンに会うのは5年ぶりだったそうです。アフリカには事故後も何度も訪れており、現地でも有名になっていたようです。オファー企画は日本で行われたようで、いい写真が撮れるまで10回ほどライオンに近づくなど、さすが松島トモ子といえるものになっています。
現在の松島トモ子の活動と画像
現在の松島トモ子の活動や画像について紹介します。松島トモ子は1998年に「車いすダンス」というものに出会いました。社交ダンスを基本にした、障害者と健常者がペアとなって、行うダンスの競技なんです。
当時、日本で初めて世界選手権が行われることになり、司会を努めた松島トモ子は、車椅子の青年からダンスパートナーに誘われて、猛練習して、世界選手権出場を果たしているんです。そして、その大会で、新人部門で優勝も果たしているんです。

また、画像から伝わる優しい雰囲気の通り、講演会などの仕事のオファーも多いようです。特に、松島トモ子は、自らの母が90歳を越えて認知症であることを告白し、その介護経験についての公演も多いようです。

しっかり者だった母親の認知症を受け入れられなかった松島トモ子は、親子心中を考えたほどだったそうです。1年ほど仕事を休み、詳しいアドバイスを受けて、現在はショートステイなどを利用しながら、母親の介護を務めているそうです。

かつて大きなハプニングに襲われた松島トモ子も、現在はその体験を乗り越え、同時に人々の心の支えになる活動を行っているそうです。松島トモ子のあの事件は、まさにテレビ史に永遠に残る大きなハプニングだったといえるでしょうね。
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