仁支川峰子と元旦那の村上隆との離婚理由は?火野正平との関係や現在まとめ
「吉原炎上」での最後のあの場面を演じた女優の仁支川峰子。また、歌手として「あなたにあげる」を大ヒットさせたことでも有名ですよね。そんな仁支川峰子は結婚していたのですが、旦那であった村上隆とは離婚しているそうです。なぜ、仁支川峰子は結婚した旦那の村上隆と離婚してしまったのでしょう。また、あの強面俳優として有名な火野正平とも深い関係にあったという噂があるようです。そんな仁支川峰子の恋模様について紹介します。
目次
歌手の仁支川峰子が村上隆と離婚した理由とは
「あなたにあげる」や「峰子のマドロスさん」、「ギターを流して今晩は」などの代表曲がある仁支川峰子。また、映画「吉原炎上」で衝撃的なラストシーンを演じたことでも有名ですよね。

そんな仁支川峰子は、村上隆と結婚したものの、その後に離婚を経験しています。また、あの強面俳優の火野正平とも、ただならぬ仲だったと言われているんです。

仁支川峰子はなぜ結婚した旦那と離婚という決断に至ったのでしょうか。また。仁支川峰子は本当に火野正平とそういった関係だったのでしょうか。

仁支川峰子の、あの別荘が流された事件を含めて、その結婚と離婚についてまとめました。仁支川峰子の結婚はどのような理由で終わりを迎えたのでしょうか。
仁支川峰子のプロフィール
仁支川峰子は1958年5月23日生まれの60歳です。本名は福田峰子で、かつての芸名は西川峰子でした。

仁支川峰子は演歌歌手として活動していましたが、自分が思うような声を出せなくなったことから、女優に転身し、その女優としても大きなヒット作に恵まれています。

福岡県田川郡赤村出身の仁支川峰子は、都立代々木高校を中退後に、その歌唱力を生かして1973年に「全日本歌謡コンテスト」に挑戦しています。
演歌歌手としてデビューした仁支川峰子
このコンテストで見事優勝したことをきっかけに、仁支川峰子は芸能界入りを果たしました。そして、翌年の1974年7月25日に「やまびこ演歌」のキャッチフレーズで、ビクターから「あなたにあげる」で歌手デビューを果たしました。

あなたにあげるは、チャート1位になるなど、いきなり大ヒットを記録し、仁支川峰子は一躍人気歌手の仲間入りを果たしたんです。

同局でFNS歌謡祭最優秀新人賞を獲得し、日本歌謡大賞放送音楽新人賞、日本レコード大賞新人賞などを受賞したんです。
仁支川峰子は演歌歌手から女優に転身
仁支川峰子は1975年にNHK紅白歌合戦に出場し、その後は4年連続で4回出場しました。しかし、ある頃から、自分の思ったように声が出せなくなったこともあり、演歌歌手から女優に転身することを決意したんです。
そして、仁支川峰子は映画「吉原炎上」で、インパクトのあるシーンを演じて話題になりました。そのため、この作品は仁支川峰子の女優としての決意を感じることが出来る作品になっています。
1987年に公開された吉原炎上は、吉原の5人の花魁の悲喜を描いており、テレビで複数回演じられており、バージョン違いがあります。特に、仁支川峰子が出演した吉原炎上では、名取裕子やかたせ梨乃、藤真利子らの有名女優が大胆なヌードシーンも演じて話題になった作品でもあるんです。
仁支川峰子はヘアヌードにも挑戦している
仁支川峰子は1982年10月6日から1983年3月30日まで、「森田一義アワー笑っていいとも!」の水曜日レギュラーを務めました。

1993年には、仁支川峰子はなんとヘアヌード写真集「PRIVATE」を発表し、1997年に発売した写真集「PrivateⅡ」は、5万部を売り上げて話題になりました。

このように、吉原炎上でも衝撃的なシーンを演じただけでなく、写真集でもヌードシーンを披露するなど、歌手・女優として過激な活動も行っています。
仁支川峰子は別荘が流されて話題に
そんな仁支川峰子が、まさかの理由でワイドショーなどを賑わすことになります。それは、1998年に那須高原の新築1ヶ月の別荘が、台風4号に伴う豪雨で流されてしまったんです。
また、その後、同じ場所に家を建て直したものの、最終的にはその家を売りに出してしまっており、仁支川峰子は悲劇女優として話題になったんです。
そもそもこの台風は、関東や東北が豪雨に見舞われて、22都道府県で死者が22人、行方不明が2人出るという大災害になったんです。栃木・那須町に4日間降り注いだ総雨量は年間降水量の3分の2にあたる1237ミリに達したんです。
仁支川峰子の別荘事件の真相
仁支川峰子の那須町にあった別荘は、余笹川の支流の多羅沢川沿いに立っていました。そして、その川幅が3メートルほどだったものが、100メートルに増水して、濁流が襲ってきて、別荘が流されてしまったわけです。

別荘のダイニングキッチンはえぐり取られ、ドアは流木で突き破られて、室内も泥まみれになったそうです。また、かなり立派だった家財道具も流されてしまい、仁支川峰子の仕事の衣装や宝石、また愛車のベンツもだめになってしまったそうです。

仁支川峰子はこのとき、フジテレビ系生放送番組「どうーなってるの?」に出演するため、4匹の愛犬と、マネージャーと、仕事の前夜に上京していたんです。

生放送が終わったときに、警察から連絡があったそうです。仁支川峰子の別荘は、望岳苑の別荘65棟の中で、流された5棟のうちの1つだったんです。
不幸女優として話題になった仁支川峰子
このような災害にあったことは、仁支川峰子の名前を改めて有名にする出来事でした。流された家の物で、手提げ金庫は無事発見されているんです。

中には11冊の預金通帳と印鑑12本、そして現金90万円ほどが入っていたようです。そして、通帳にはそれぞれ1000万円ほどのお金が入っていたようですね。

金銭に関係する大事なものは見つかったものの、デビュー時代からの衣装や思い出のアルバムは見つからなかったそうです。

仁支川峰子にとっては、愛犬たちと暮らすために、田舎暮らしを考えていたようです。仁支川峰子は終の棲家にするつもりだったようですね。せっかくの、新築祝いのパーティーを開く矢先だったそうです。
仁支川峰子が結婚した旦那とは
2001年7月に、仁支川峰子は後鳥羽上皇の墓守りである隠岐島在住の町会議員との結婚を発表したんです。仁支川峰子が結婚したこの旦那とは、どのような人物なのでしょうか。

この町会議員は、町の観光協会の職員だった村上隆という人物のようです。この村上隆は、49代目の後鳥羽上皇の墓守を務める旧家の子孫なんだとか。

仁支川峰子が旦那である村上隆と出会った理由は、2000年に旅番組で島根県隠岐島を訪れたことが、馴れ初めだったようです。町会議員など、細かい職業の情報の違いはあるようですが、少なくとも、墓守の家系であり、子孫を欲しがっていたという情報は間違いないようです。
仁支川峰子が旦那と離婚した理由
しかし、仁支川峰子は2008年3月に離婚調停を開始し、2009年4月に正式に離婚したことが発表されたんです。なぜ、仁支川峰子は、旦那である村上隆と離婚することになってしまったんでしょうか。

ここにはいくつか離婚の理由があったようです。まずは、先程紹介したように、村上隆はその墓守の家系として、50代目の墓守になる子孫の誕生が必須だったようです。
しかし、仁支川峰子と村上隆の間には子宝が恵まれず、不妊治療も行っていたそうです。しかも、それだけではなく、なんと仁支川峰子が、結婚後の生活費を全額出していたそうです。
仁支川峰子と旦那の村上隆は、出会ってから入籍までわずか16日しか経っておらず、仁支川峰子は、離婚の理由に相手の本質を知らなかったことも大きな原因だと感じていたようです。
結局は不倫が原因
そして、最終的な理由は、やはり旦那の不倫が理由だったそうです。もともと、仁支川峰子は結婚する時の約束として、浮気したら離婚という約束をしていたようです。

そして、そういった約束がありながら、離婚する一昨年前の春頃から、なんとなく旦那のおかしな行動に気づいていたそうです。
しかし、それが次第に確信に変わったことが村上隆との離婚に至った理由のようです。また、当時、自分の実母のように慕っていた夫の祖母が亡くなったことも、仁支川峰子の気持ちが切れてしまった理由だったようです。

しかも、夫である村上隆は、かなり暴言を仁支川峰子に行っていたようで、夫の祖母の支えがあったうちはそれにも耐えられたようです。精神的にかなり参った上での、離婚だったようですね。

ちなみに、離婚調停から離婚が成立するまで時間がかかった理由には、隠岐島に建てた新居のローンの支払いが折り合いがつかなかったことが理由のようです。結局は、仁支川峰子と旦那の両親が半分ずつ支払うことで離婚が成立したようですが、本人曰く、昔から男運が無いそうです。
仁支川峰子の改名と病気
仁支川峰子は2009年12月24日にフジテレビ「くちこみっ!大捜索2!!本当に凄い(秘)占い師テレビ解禁スペシャル!!」において、「西川峰子」から「仁支川峰子」に改名することを決意したんです。

そういった改名も行って、いろいろな運気のようなものを変えようとした仁支川峰子ですが、2010年4月に乳頭癌であることが発覚したんです。

仁支川峰子は大学病院の精密検査の結果、甲状腺の乳頭癌であると診断されたんです。そして、劇団。若獅子公演が終了したのに合わせて入院し、2度に渡る手術で摘出手術が行われたそうです。

現在、手術後の調子は良好なようで、以前のようにテレビなどの活動は再開しているようです。とはいえ、仁支川峰子のこの、波乱万丈の人生は改名ぐらいでは改善されなかったというわけです。
仁支川峰子があの火野正平と不倫関係だった
仁支川峰子は2018年にTBS「ビビット」に出演し、タレントの藤田紀子と対談を行いました。そして、東京の青山の会員制のバーで二人は話し始めるのですが、そこで、仁支川峰子がなんと火野正平と過去に不倫をしていたことを告白したんです。

どうやら仁支川峰子の告白によると、火野正平にとって、仁支川峰子は7番目の愛人のような存在だったのだとか。もともと、火野正平は多くの女性と浮き名を流し、愛人のような存在がたくさん居ることで有名ですよね。

この火野正平との不倫は、37年前にマスコミでスクープになった出来事で、火野正平との不倫自体は、かなり古い話のようです。
火野正平とは
仁支川峰子が不倫していた火野正平とはどのような人物なのでしょうか。その顔について知っている人はとても多いですよね。火野正平は1949年5月30日生まれの69祭で、本名は二瓶康一というそうです。

東京都目黒区生まれで、もともとは子役として活動していたんです。その強面の顔つきから、サスペンス系のドラマやヤクザ系のドラマに出ることも多く、二時間ドラマなどでもその活躍が多いですね。

また、「芸能人プレイボーイの元祖」と言われるように、多くの芸能人と肉体関係があったと言われています。

その相手は、ドラマで共演した二番手や三番手女優に始まり、タイムキーパーやマネージャーなど裏方の一般人女性も多かったそうです。主演級の女優に手を出さないのは、火野正平が脇役的役柄が多く、主演女優に気を使っていたからなんだとか。
7番目の愛人だった仁支川峰子
仁支川峰子が火野正平との不倫関係になった理由は、共演したドラマの打ち上げがきっかけだったようです。打ち上げで、そのまま朝までいっしょに飲み明かして、仁支川峰子が起きたときには、横に火野正平が寝ていたようです。

どうやら、火野正平はそのまま仁支川峰子の家に転がり込んでいたようで、次第に自分が7番目の愛人であることを知ったそうです。そして、同時に8番目の愛人の存在を調べ上げて、火野正平にその証拠を突きつけて、出ていってもらうように言ったそうです。

火野正平との関係は、半年ほどだったそうです。また、火野正平は、自身の自伝の中では、本妻とは絶対に離婚しないと考えていたそうです。

ここには、籍を入れた状態で、いろんな人と会うほうが、自由に他の女性と出会えるからという、火野正平ならではの考えがあるようです。ちなみに、その8番目の愛人というのは、付き人のような形でいたマネージャーの女性だったようです。
強い女な仁支川峰子
仁支川峰子はこのような災害や不倫の出来事に合っても、挫けずに現在も女優や歌手として活動しています。別荘が流された際も、こんなところに建てた自分が悪いとして、現実から目を背けずに立ち直った仁支川峰子。その熱いハートは、まさかな愛人状態を知っても変わることはなかったようです。

また、近年話題になっている、ハリウッドの枕営業問題についても、自身が経験したことがあることを告白したようです。

プロデューサー室に呼ばれた仁支川峰子は、そういった枕営業を要求されたものの、自身はちゃんとした恋や交際に発展しないようなことは出来ないと、枕営業を断ったそうです。

その発言に対して、プロデューサーは、仕事が全く出来ないようにしてやると脅されたようですが、仁支川峰子は体を売ってまで仕事は欲しくないと突っぱねたそうです。

この一貫した仁支川峰子の強い気持ちが、災害の被害、結婚から離婚、そして火野正平との不倫関係などを乗り越えてこられた理由なのかもしれませんね。これからも、そんな変わらない姿勢を、現在の若手女優や歌手の見本となって欲しい存在です。
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