財津一郎の今現在は?死亡説の真相や息子は【タケモトピアノCM】

一部では「タケモトピアノ」のCMでお馴染みの財津一郎。しかし、本来の財津一郎といえば俳優やコメディアンとしての姿が有名です。しかし、その財津一郎もタケモトピアノのCMを除いて現在の活動を見たという人は少ないのではないでしょうか。現在の財津一郎は、なんと死亡説が流れてしまっているそうなんです。今の財津一郎の活動や財津一郎の息子について調査しました。あのタケモトピアノのCMで元気だった財津一郎は本当に死亡してしまったのでしょうか。

目次

  1. 現在の財津一郎に死亡説が流れているらしい
  2. 財津一郎のプロフィール
  3. 実は財津一郎は神武天皇の時代から続く名家
  4. 演劇の勉強をしていた財津一郎
  5. 実は財津一郎は吉本興業に入っていた
  6. 俳優として花開いた財津一郎
  7. 吉本を離れて本格的に俳優業に勤しんだ財津一郎
  8. 財津一郎が人気俳優になれた理由
  9. 財津一郎も多くのミスやトラブルを経験している
  10. 財津一郎の今の活動に関わる大きな病
  11. 財津一郎といえばやはり「タケモトピアノ」
  12. タケモトピアノのCMで赤ちゃんが泣き止む?
  13. 財津一郎のタケモトピアノとは
  14. CDまで発売された財津一郎のCM
  15. 財津一郎のCM誕生の秘話
  16. いまでも財津一郎ファンの社長が放送を続けている
  17. 財津一郎の息子について
  18. 財津一郎死亡説とは
  19. 財津一郎も在籍している「昭和九年会」とは
  20. 2010年を境に活動は休止状態
  21. 遺作になる可能性もある
  22. もう一度財津一郎の演技を見たいが…

現在の財津一郎に死亡説が流れているらしい

「タケモトピアノ」のCMでお馴染みな財津一郎。もちろん、ただの陽気なおじさんなわけではなく、俳優としてかなり強面な役を演じることもあった財津一郎は、名バイプレイヤーといえる存在です。

そんな財津一郎も今どのような活動をしているのか確認できない人も多いかもしれません。テレビCMでは今も財津一郎のタケモトピアノが流れています。

ところが、ドラマや映画で今の財津一郎の活動はなかなか見ることができません。そんな理由から現在の財津一郎は、すでに亡くなっているという死亡説が流れているそうです。

財津一郎の死亡説についての真相や、今どのような活動をしているのかについてまとめてみました。本当に財津一郎は今は死亡して亡くなってしまっているのでしょうか。

財津一郎のプロフィール

財津一郎は1934年2月22日生まれの84歳です。財津一郎という名前は芸名で、本名は財津永栄というそうです。

また、財津一郎は熊本県熊本市出身で、俳優やコメディアン、また歌手として今まで活動してきました。その強面から、優しいパパ役まで演じられる幅広さが長年に渡って俳優として活躍できた理由といえます。

もともと財津一郎の家系は、神武天皇時代から続く名家で、財津一郎の父親は農林省の役人だったんです。そして、財津一郎は3人兄弟の末っ子として、東京に住んでいたんですが、父親が中国へ出征したため、1944年に一家で故郷の熊本へ疎開したそうです。

実は財津一郎は神武天皇の時代から続く名家

財津一郎は、1947年に阿蘇にある財津家の土地を守るために阿蘇郡黒川村に移住し、学校もそれまで通っていた済々黌中学から阿蘇農業高等学校に転校したそうです。

そして、1949年に財津一郎は再び熊本市に戻って、済々黌高校に復学したそうです。その後も、財津一郎は終戦後も高校を卒業するまでを熊本で過ごしたそうです。

財津一郎は1953年に上京し、早大文学部演劇学科を受験したそうですが失敗してしまったそうです。そして、早大近くの印刷店などでアルバイトをして生活していたそうです。

また、そのときに当時、東京都大田区にあった榎本健一映画演劇研究所で演技を勉強したそうです。同時に帝劇ミュージカルの研究生になったんです。

演劇の勉強をしていた財津一郎

財津一郎は榎本健一映画学校を卒業後は、さらに演技の修行をしたいという理由から、東京に上京を行ったようです。

そんな中で偶然に野球場で憧れの俳優である仲代達矢に出会い、1955年に帝劇ミュージカルが解散すると、「財津肇メ」という芸名で、石井均一座に入門し、ここでもばったりと伊東四朗に出会っているんです。

また、財津一郎は後に妻となる人物ともこの一座と出会っており、財津一郎の現在までの人生の中で非常にキーポイントとなった場所だったといえます。

その後は、新宿の劇団「ムーラン」の舞台に立ったものの、数年後に解散してしまい、財津一郎は大阪でやり直しを考えて宝塚新芸座やOSミュージックホールを歩いていたそうです。

実は財津一郎は吉本興業に入っていた

現在の若者にはあまり知られていないかもしれませんが、財津一郎は1962年に吉本興業に入り、1964年には、吉本新喜劇に参加しているんです。

この頃から、財津一郎は芸名を現在の「財津一郎」に改めて活動をしていたようですね。この芸名を名付けてくれたのは、当時の吉本興業の社長であり、現在もその伝説が語られることが多い林正之助の弟である林弘高だったんです。

この芸名の理由には、吉本では大衆的な名前よりも、大物の印象がある河野一郎や有島一郎のような「一郎」をつけるべき、という考えから、財津一郎という名前をつけられたそうです。

そして、財津一郎は1965年に吉本新喜劇座長に就任し、初期ではサラリーマン役、後半は老け役を演じていたようです。

俳優として花開いた財津一郎

財津一郎は藤田まこと主演の「てなもんや三度笠」に浪人・蛇口一角役で出演し、手を頭の後ろから回して、反対側の耳をつかんで「非っ常にキビシーッ!」、「~してチョウダィ!」のギャグが大ヒットすることになります。

また、抜いた刀の刃を蛇のようになめまわすという動作も合わさり、一気に注目の俳優になります。しかし、財津一郎は現在のようにギャグでいっているつもりはなかったようで、あくまで演技中に奇声を発することだけが目的だったようです。

そして途中からは写真師の桜富士夫役に変更になったものの、最後までレギュラーとして出演を続けることになります。これも、もともとは財津一郎はレギュラーの予定ではなかったものの、そのキャラクターの人気を受けての判断だったようです。

吉本を離れて本格的に俳優業に勤しんだ財津一郎

財津一郎は1969年に吉本興業を退社し、活動の拠点を東京に移すことななります。そして、所属事務所を志母澤事務所に移籍しています。

1981年に「連合艦隊」で中井貴一扮する神風特攻隊に志願した青年の父親である海軍兵曹長を演じ、本格的な演技が注目されることになります。

また、「3年B組金八先生」では、英語の教科担任である左右田先生役で出演し、この役柄では吉本新喜劇時代のようなコミカルなボケを行う役柄が、財津一郎の魅力を引き出す役柄になります。

1996年にNHK大河ドラマ「秀吉」で豊臣秀吉の義父と言われている竹阿弥を演じ、現代ドラマから時代劇と多くの作品に出演しています。2004年にはNHKの連続テレビ小説の「天花」では主人公の祖父役も演じています。

財津一郎が人気俳優になれた理由

財津一郎は今でも人気俳優の一人として名前があがることがありますが、その理由には時には「クドい」と言われるほどの、独特な演技と立ち居振る舞いがあります。

同じクドいキャラクターでお馴染みのルー大柴には、クドいと言われても、こちらに目をちらっとでも向けさせたらこっちの勝ちという気持ちで取り組むようにといったアドバイスを送るなど、そのクドいキャラは自身のこだわりであったことがうかがえます。

また、過去には吉本新喜劇でアドリブで仁丹を使ったギャグをやったところ、当時の吉本新喜劇のテレビ中継のスポンサーだった大正製薬に怒られてしまったという経験もあるそうです。

実はこの事件はかなり大事になり、財津一郎はあやうく降板になるところであり、結果的には降板は免れたものの、吉本新喜劇は生中継されていたものが、録画放送されるという形に変わるという大きな出来事になったんです。

財津一郎も多くのミスやトラブルを経験している

このように吉本新喜劇時代に大きなミスを犯しているだけでなく、とある舞台では、演出家とBGMに関して大揉めしたことがあるようです。

このとき財津一郎は、自分の好きなジャズを流すように勧めたそうですが、演出家は財津一郎のこの提案を断固拒否したそうです。

このとき、演出家には、財津一郎は枠を打ち破るほどのパワーがあるために、あえて財津一郎が望まない枠に閉じ込めることで、その枠を壊すぐらいの演技をして欲しいという思いがあったようです。

また、財津一郎は一時期は楽屋で食事の時間を惜しむほどの人物だったようで、開演5分前に到着したラーメンを無視して、腹に入れば一緒という理由から、側にあったアンパンだけを食べて飛び出すなど、周りからは「財津ラーメン」と言われるほど変人扱いもされていたようです。

ちなみに、歌手の財津和夫とは親戚関係にはあるようで、かつては財津和夫宛のファンレターが間違って、財津一郎のもとに届くことも多かったそうです。

財津一郎の今の活動に関わる大きな病

実は財津一郎は61歳のときに、脳内出血を発症し、左半身に軽い麻痺が残ったそうです。しかし、従来の努力家な性格から、リハビリを行い、3ヶ月後にはテレビドラマの仕事に復帰したそうです。

実はこの脳内出血の病は、現在の財津一郎の活動が減少した理由の一つとも言われているようです。少なくとも、この大きな病は、リハビリを経て、以前に近い状態には戻れたといえど、精力的に活動をすることが厳しくなったといわれているようです。

しかし、その後も、その強い精神力でドラマには出続けたわけで、財津一郎の俳優としての生き様というものは今も失われていないといえますよね。

財津一郎といえばやはり「タケモトピアノ」

財津一郎という人物を語る上で、決して無視できないのが「タケモトピアノ」のCMです。

財津一郎は、このタケモトピアノのCMの前に「こてっちゃん」のCMで、その奇声が話題になり有名になっています。そして、その後に、長きに渡って放送されるタケモトピアノのCMに出演し、これが関西圏で大きなブレイクになります。

そして、なんとこのタケモトピアノのCMは、財津一郎の声を聞くと赤ちゃんが泣き止むという噂が流れ、「探偵ナイトスクープ」で紹介されることになるんです。

タケモトピアノのCMで赤ちゃんが泣き止む?

このタケモトピアノのCMで赤ちゃんが泣き止むというのはギャグではなく、実際に探偵ナイトスクープの中でも赤ちゃんが泣き止む場面が確認されているんです。

そして、その理由はやはり財津一郎の特徴的な声が理由だったようです。というのも、財津一郎のあのタケモトピアノのCMでの声は、幼児が好む「440ヘルツ」周辺の声というのが大きな理由だったそうです。

このいままでいろいろな場面で財津一郎の奇声が話題になってきたわけですが、最終的にはタケモトピアノのCMで、その声が幼児に好まれる声であることまで発覚し、改めて財津一郎が注目されるきっかけになったようです。

財津一郎のタケモトピアノとは

そもそも財津一郎が出演しているCMのタケモトピアノとは、どのような会社なのでしょうか。タケモトピアノは大阪府堺市堺区に本社がある中古ピアノの買い取りや販売を行っている会社なんです。

1979年に創業されて、その後は九州や中国・関西・中部・関東の各地方に中古ピアノの買取業務を行っており、現在はヨーロッパや米国、またオセアニアや東南アジアなど、世界44ヶ国以上に輸出を行っているんです。

もともと、財津一郎が出演したタケモトピアノのCMは1997年で関西・東海限定のCMだったんです。そして、このタケモトピアノのCMが探偵ナイトスクープで取り上げられて話題になったんです。

そのため、ローカルCMだったタケモトピアノのCMは、全国で放送されるCMに変わったんです。とはいえ、基本的にこのCMは作製当時から全く変わっておらず、2011年に地デジに完全移行後も、当時の4:3の画面比率で放送されているんです。

2013年には、これとは別にナレーション主体の新しいCMが放送されるようになりましたが、財津一郎のCMは変わらず放送されているという、長寿CMになっているんです。

CDまで発売された財津一郎のCM

この財津一郎のCMはラジオCMでもまったく同じものが使用されており、音声版が15秒流れるものや、電話番号のナレーションを加えた20秒版が存在しているようです。

また、タケモトピアノの関連会社の「タケモット」から、CM関連のグッズやCD・DVDまで販売されているんです。しかも、CMで流している映像のビデオを売って欲しいという問い合わせが殺到したこともあるそうです。

CDに関しては、なんと一企業のCMソングでありながら2003年にはオリコンチャートで7位になるなど、今でも伝説のCMとして変わらず放送されているものなんです。

財津一郎のCM誕生の秘話

この財津一郎のCMは社長であり創業者である竹本功一会長の社運をかけたCMだったそうです。もともと、高知県出身だった社長は、1979年に高知市内のデパートで初めたピアノ販売会社「竹本楽器」が、会社のルーツになっているんです。

その後は会社を大阪府岸和田市に移し、1988年から中古ピアノを買取、それを海外に輸出するというビジネスで成功したわけです。

財津一郎が出演するCMは2000年から現在までは、2つの曲を使った2パターンが放送され続けているようです。このCMが誕生するまでの間、6本ほどCMを作ったそうですが、売上には効果がなかったそうです。

そのため、社長を含め、社員が解体業者に壊される家にピアノがあったら教えて欲しいとチラシを配って頼み込んでいたそうです。そのなかで、起死回生を狙って作られたのが財津一郎のCMだったんです。

いまでも財津一郎ファンの社長が放送を続けている

CMの曲は、プロの作曲が手がけ、作詞に関しては長年会社のPRを担当してきた北川勝利が生み出したそうです。社名を活かした歌詞作りという依頼だったようで、1ヶ月ほど悩んだ上で、あの歌詞が誕生したそうですね。

探偵ナイトスクープを中心に有名になったCMですが、放送が開始されてからかなり期間が経っているのも事実です。それでも、この財津一郎のCMを変えないのは、もちろん知名度が高いということもあるようですが、何よりも社長が財津一郎のファンということが大きく関わっているようですね。

CMの中では、財津一郎のギャグがうまく組み込まれており、財津一郎にとっても大事なCMとしてずっとこれからも使われていくものなのかもしれませんね。

ちなみに、あのCMのダンスはSMAPの香取慎吾の慎吾ママの「慎吾ママのおはロック」などの振り付けを行った香瑠鼓という振付師が考えたそうですね。非常に印象的なダンスは、さすがプロの振付師という感じですね。

財津一郎の息子について

財津一郎は1969年に結婚し、息子が一人居るそうです。また、孫も居るそうですね。そして、現在は息子夫婦と孫と一緒に同居して生活していると言われています。

財津一郎の息子である財津功は、日本テレビに勤務しているテレビプロデューサーなんだとか。息子が手がけた番組で有名なものは「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」のようですね。

現在は、総合演出家となっており、財津一郎の息子もかなり局では上の立場の人になっているようです。しかし、そんな息子も父親と同じように大きな失敗をしたことがあるようです。

息子がまだADだったころ、空き時間を利用して映画を見ようとしたそうです。そのとき見た映画が「クレイジーキャッツ」の6本立ての映画だったそうです。息子は1本見たところで仕事に戻ろうと考えていたそうですが、あまりにもその映画が面白かったそうです。

そして、結局は6本最後まで見てしまったそうで、急いで仕事に戻ったときには先輩にめちゃくちゃ叱られてしまったそうです。そんな経験もあった息子ですが、父親である財津一郎の苦しいときこそ笑えという言葉を守り、息子も今では有名な総合演出家になったわけです。

財津一郎死亡説とは

実は、財津一郎には死亡説が流れたことがあるそうです。たしかに、現在では財津一郎のあのCMこそ流れているものの、その本人である財津一郎の姿を別のドラマなどで見かけることは無くなっています。

そのことが原因で財津一郎はすでに死亡しているという死亡説が流れてしまったようですね。また、61歳のときに発症した脳内出血も財津一郎の死亡説につながってしまったそうです。

とはいえ、現在は80歳を越えており、いまだに死亡説が流れる状況が続いているようです。普段は財津一郎のことを気に留めていなくても、あのCMを見ることで財津一郎のことを思い出して調べる人も多いようですね。

かつて、テレビの中で当たり前のように見ていた人がテレビの前から姿を消すと死亡説が流れることは多く、財津一郎も同じように急にテレビから消えてしまったことで死亡説が流れてしまっったというわけです。

財津一郎も在籍している「昭和九年会」とは

この死亡説に関わるものとして、財津一郎が在籍している「昭和九年会」というものがあります。これは1934年生まれの芸能人の親睦会として結成されたものなんだとか。

しかし、司会者である玉木宏が2010年に亡くなって以降は、多くのメンバーがこの世を去ってしまっているんです。2011年に俳優である長門裕之やコメディアンの坂上二郎が亡くなってしまったのを覚えている人も多いといえます。

2012年には俳優の佐藤允、2013年にコメディアンの牧伸二、2014年に元TBSアナウンサーの山本文郎がすでに亡くなってしまっているんです。

また、愛川欽也や落語家の橘家圓蔵も亡くなってしまっています。そして、大橋巨泉や藤村俊二も亡くなり、財津一郎の死亡説が流れるのも、こういったメンバーがどんどん亡くなったことが理由ともいえます。

宝田明や筒井康隆のように時々、今でもテレビでその姿を見かける人はいますが、それでも多くの昭和九年会の人物が亡くなってしまったといえますよね。改めて、こういった大物芸能人が亡くなっていることを確認して、驚くということもありますよね。

2010年を境に活動は休止状態

財津一郎は2010年に公開された映画「ふたたび swing me again」に出演しています。しかし、財津一郎にとっては、この映画を境に、ほとんど芸能活動を行っていないようで、今は芸能活動は休止状態だと言われています。

この映画ではすでに亡くなっている藤村俊二も出演しており、財津一郎と藤村俊二の貴重な共演映画ともいえます。昔からジャズ好きな財津一郎にとっては、とても身近なストーリーになっており、主演には鈴木亮平と財津一郎が孫と祖父という関係になっているんです。

この映画は、かつてジャズバンドに青春をかけた男が、50年間抱き続けた夢を果たすために、孫と一緒に旅に出るロードムービーになっているんです。

共演した鈴木亮平は、財津一郎から息子や孫のような存在として扱ってもらえたようで、非常に勉強になる部分が多かったそうです。

遺作になる可能性もある

財津一郎は、ハンセン病で50年にわたり隔離されていたジャズトランペッターを演じているそうです。しかし、財津一郎はこの2010年の映画の時点でかなり体力的に不安を抱えていたそうです。

財津一郎は、体力的に不安を抱えながらも、自分の俳優生活の最後のご褒美だと思って役柄を演じたそうです。そういった態度から、財津一郎が作品に出演するのが最後になるかもしれないという雰囲気はかなりあったものの、あくまで命ある限り演じ続けるという気持ちはあるそうです。

舞台挨拶では藤村俊二とも楽しそうに会話をし、往年のギャグを披露したものの、藤村俊二は2017年に亡くなり、財津一郎もこの作品以降にはテレビドラマを含め、基本的にテレビの前に姿をあまり見せなくなってしまっています。

もう一度財津一郎の演技を見たいが…

財津一郎のタケモトピアノのCMについてや、息子について紹介しました。また、現在の活動ついても紹介しましたが、今は財津一郎は基本的に活動をしていないといえるでしょう。

息子もいまは大物演出家になっており、孫も誕生しており、思い残すことは少ないという状況なのかもしれませんね。今は、息子夫婦と孫と一緒に生活していると言われており、のんびりと余生を過ごしている可能性が高いですね。

何よりも2010年の段階で、かなり体力的に厳しさを感じていたと言われているので、今後もドラマや映画に出演することがあっても、特別出演のような短いものになるかもしれませんね。

とはいえ、財津一郎のタケモトピアノのCMはいまでも放送されており、多くの人から愛されているCMといえます。今後もこのCMを通して、財津一郎という俳優でありコメディアンの存在が受け継がれていくのが望ましい形といえますよね。

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