大原麗子の死因は!孤独死の真相と高倉健や渡瀬恒彦への晩年の想いは
幻の美人女優大原麗子さんですが、いつまでも年齢を感じさせない可愛さが魅力です。生前世の中の男性の憧れでもあったはずです。あの少しかすれた声で囁かれると、どんな男性、いえ女性でも惹かれてしまいそうです。そんな大原麗子さんの孤独死、死因など晩年の病気について少し取り上げてみました。こんな美しく魅力溢れる大原麗子さんの死因の真相、また若くして苦しめられた病気につてもお話いたします。
目次
- 美しい過ぎる大原麗子さんってどんな女優?
- 映画からテレビドラマの世界に大原麗子さん転換時期
- 大原麗子さんがかかったギランバレー症候群とは
- 大好きな渡瀬恒彦さんと大原麗子さん結婚へ
- 世の男性を虜にしてしまう大原麗子さん
- 大原麗子さん2度目の結婚
- 晩年の大原麗子さんは病気との闘い
- 高倉健さんの大原麗子さんへの思いの真相は?
- 晩年表舞台から消えて生活も苦しかった大原麗子さん
- 大原麗子さんが最後に見たDVDは高倉健さんとの出会い
- 孤独死?死因は?大原麗子さんはベットで
- 大原麗子さんの死因である不整脈とは
- 孤独死を感じさせない大原麗子さんのお別れ会
- 弔辞には大原麗子さんの孤独死前の苦しみも
- 孤独死から6年の大原麗子さんの晩年を垣間見る
- 国民的女優大原麗子さんの愛し愛された人生
美しい過ぎる大原麗子さんってどんな女優?
大原麗子さんのプロフィール

1946年11月13日生まれ、東京都文京区出身、本名は飯塚麗子さんです。父親は老舗の和菓子屋経営されていました。子供の頃には、父親から虐待では?と言われるほど厳しいしつけを受けていたようです。ご両親は、離婚されています。離婚後、大原麗子さんは母親に、弟は父親に引き取られました。また、大原麗子さんは、父親とは絶縁状態だったといいます。
大原麗子さん芸能界入り

大原麗子さんの芸能界のきっかけは、東京放映の大野直社長に直接スカウトされたようです。その後、1964年NHK「幸福試験」でデビューします。翌年になると東映に入社します。そこで佐久間良子さん主演「孤独の賭け」で本格的に映画の世界に入ります。

その後は、高倉健さんの「網走番外地」シリーズや千葉真一さんや梅宮辰夫さんの主演映画などにも度々出演するようになります。しかし、その役どころは、納得できるような役柄には恵まれなかったようです。しかしながら寅さんシリーズでは2度のヒロイン役に出演しています。
映画からテレビドラマの世界に大原麗子さん転換時期
1970年代に入るとテレビの世界に

1970年代に入ると、東映から渡辺プロダクションへ移籍します。東映の映画の世界は男世界で、なかなかその殻を破ることができないと考えたとも言われています。しかし、その考えが見事に的中したのです。橋田寿賀子さんの脚本作品でNHKの大河ドラマ「春日局」に抜擢されます。それが見事に大当たりします。当時の大河ドラマ視聴率歴代3位という視聴率をたたき出します。

そんなドラマへの出演が、有名な石井ふく子プロデューサーの目にも留まります。実力が認められたと言うことです。しかし、1975年ギランバレー症候群を発症し、難病の病気にかかってしまいます。
大原麗子さんがかかったギランバレー症候群とは
死因にも関係しているかもしれないギランバレー症候群

10万人1人とも言われている大原麗子さんも苦しんだギランバレー症候群とは、未だに良く原因も解明されていない疾患です。まだはっきりとはわかっていない難病ですが、体の全身に張り巡らされている末梢神経に障害が生じる病気と考えられています。
ギランバレー症候群だけでは死因とは基本ならない
末梢神経とは、運動神経や感覚神経、自律神経など体全身の神経を言います。高齢者に多く見られる病気とも言われています。この病気は、感染症によって発症するともみられているのです。先行感染するケースが80%をも占めると言います。呼吸器系の風などによる感染症が多く見られ、風邪の後3~4週間後にギランバレー症候群を発症するケースが多く見られるようです。

その病気の症状は、個人によってかなり症状が違っています。比較的初期症状に多く見られるのが、手足がピリピリとしびれ、その後、手足に力が入らなくなります。症状は3週間をピークに治まっていくようです。しかし、重症の場合は、歩けない、話ができない、寝たきりなど筋力低下が著しいようです。しかし、その後は治っていくようです。よって死因とは言われないことが多いようです。
大好きな渡瀬恒彦さんと大原麗子さん結婚へ
晩年まで気にかけてくれた大好きだった渡瀬恒彦さん

1972年大原麗子さんと渡瀬恒彦さんは婚約されます。なんと言っても大原麗子さんの一目惚れで、お付き合いが始まったのも大原麗子さんが渡瀬恒彦さんを大好きだったからと言うほどでした。
結婚式ができなかったことが寂しかった?

1973年に2人は結婚することになります。結婚式は渡瀬恒彦さんの親戚にご不幸があり、取りやめになります。その為、2人で渋谷区役所に婚姻届を出します。大原麗子さんにとっては、結婚式を挙げられなかったことは、ちょっと不幸に感じているかもしれません。
売れっ子同士がすれ違いを生んだ
元々2人は結婚前からお互いに、超売れっ子同士ですから、新婚生活と言った甘い生活とは程遠かったようです。渡瀬恒彦さんは、京都を基盤にお仕事があり、大原麗子さんは東京中心にお仕事がますます忙しくなっていくのです。こうやってすれ違いの日々が続いていきます。その結果、結婚からわずか5年程で終止符が打たれます。
世の男性を虜にしてしまう大原麗子さん
誰もが魅力を感じる大原麗子さん

1977年頃、大原麗子さんはあるテレビコマーシャルで、世の男性全てを虜にしてしまいます。それが、サントリーレッドのコマーシャルです。今や大原麗子さんの代名詞と言っても過言ではありません。

「すこし愛して、なが~く愛して」という短いフレーズが頭を離れないと言う男性も多くいたはずです。少しかすれ気味の甘い声が最高に可愛いのです。確かに女性から見ても圧巻の魅力でした。
大原麗子さん2度目の結婚
結婚した幸せより仕事を選んだ大原麗子さん

1980年に歌手の森進一さんと2度目に結婚します。結婚後大原麗子さんは森進一さんとの間に子供を授かります。しかし、大原麗子さんはその事を隠したまま、子供は産まないと決断を下してしまいます。仕事を選んでしまうのです。その事で、大原麗子さんの実弟は、森進一さんに姉と別れて幸せな家庭を築いてほしいと懇願します。

森進一さんにとっては、苦渋の選択だったようです。そこであえて別れは言わず、嫌な男を演じて嫌われるようにふるまったといいます。その結果、結婚生活は4年ほどで終わりを迎えます。その後、森進一さんは、歌手の森昌子さんと結婚され、後に離婚されています。因みにワンオクのtakaは、森進一さんお息子と言うことになります。
晩年の大原麗子さんは病気との闘い
死因と噂されるギランバレー以外にも乳がんで苦しむ晩年の大原麗子さん

晩年の大原麗子さんは様々な病気に苦しむことになります。まず、大原麗子さんが47歳の時には乳がんになります。それが1993年の事になります。またこの後にも、1999年には、またもやギランバレー症候群を再発したと言うことで、女優業を休止します。この様に晩年は病気との戦いになります。この再発と言うのも非常に珍しい事のようです。
大原麗子さんの遺作は結婚相手だった渡瀬恒彦さん主演のドラマ

この時に、実はうつ病を発症していたとの噂もあります。そんな中、2004年には、好きだった渡瀬恒彦さん主演のドラマに出演することになります。これが最後の作品、つまり遺作となってしまいます。渡瀬恒彦さんの代表作の十津川警部シリーズの「東北新幹線はやて殺人事件」です。

この時には、すでに病気のせいか、かつての輝きは失せていたと言う声もあったようです。また、この後には、奥二重を整形手術して変わってしまったなどいう話もあるようです。この時にはうつ病や精神的にも追い詰められていたといいます。真相はどうかはっきりはわかりませんが、晩年はかなり苦しんだようです。この後も2008年自宅で転倒して骨折しています。
高倉健さんの大原麗子さんへの思いの真相は?
年の差なんて関係ない大原麗子さんと高倉健さん

大原麗子さんと高倉健さんの出会いは「網走番外地 北海編」での共演でした。大原麗子さんは19歳、高倉健さん34歳でした。大原麗子さんから見て高倉健さんはかなり大人の男性だったに違いありません。そんな大原麗子さんが恋心を抱くのも仕方ありません。
万年筆に込められた高倉健さんの本心は?

その恋心は、ひょっとすれば高倉健さんにも伝わっていたかも知れません。高倉健さんは非常に妹として可愛がっていたようです。しかし、本当に妹として見ていたかどうか真相はわかりません。そんな高倉健さんから大原麗子さんにプレゼントがありました。そのプレゼントとは、万年筆でした。
その万年筆には”Takakuraken №1”と記してありました。これが何を意味するか、その真相は、次の通りと言われています。まず、高倉健さん本人も同じ万年筆を持っています。それには、Takakuraken №0と記されています。大原麗子さんは、この№1を見て、私が高倉健さんの№1!嬉しいと言っていたそうです。真相は闇の中ですが、確かにそうともとれます。
晩年表舞台から消えて生活も苦しかった大原麗子さん
晩年は病気だけでなく生活費にも苦しんだ大原麗子さん

非常に大きな豪邸に住んでいた大原麗子さんですが、決して生活は楽ではありませんでした。晩年はいくつかの病気などで苦しめられ、公の場に出てくることは、ほとんどありませんでした。確かに晩年の病気が死因と直接関係しているか真相はわかりませんが、とにかくお仕事はできていなかったようです。

その為、非常に生活は苦しく、家にある金品は全て売りさばいて生活費に充ててしまいます。それでも、絶対自宅の豪邸は手放しませんでした。それにも訳があります。それは自宅が高倉健さんのご自宅に近かったからと言うこともあったかもしれません。
高倉健さんに少しでも近づきたい思いがあった

また、決して高倉健さんからのプレゼントは、手放しませんでした。それは、やはり大原麗子さんの高倉健さんへの愛情としか考えられません。真相こそわかりませんが、二人の間には見えない糸が存在していたのかもしれません。
大原麗子さんが最後に見たDVDは高倉健さんとの出会い
本当に大原麗子さんは心まで孤独死だったのか?

大原麗子さんの孤独死と言われています。確かに誰にも看取られることなく独りでこの世を去って行ったのですから孤独死と言われても仕方がありません。しかし、本当に孤独死だったのかと言う点では、真相は謎でもあります。実は、大原麗子さんが亡くなっているのが、発見されたときにDVDが入っていたそうです。おそらく亡くなる前見ていたと思われます。
最後の最後まで大好きな人との思い出を満喫した大原麗子さん
そのDVDと言うのが、憧れの高倉健さんとの共演のDVD「チロルの挽歌」でした。そのDVDを見ながらどんな気持ちだったのでしょうか。大好きな高倉健さんとの思い出に慕っていたのかもしれません。また、ベットので亡くなっていましたが、指先から15㎝の所に携帯電話がありました。最後に誰と話をして、誰に話しをしたかったのか真相は分かっていません。

でも、最後の最後まで大原麗子さんには、心の支えがいたのかもしれません。それが、渡瀬恒彦さんであり、高倉健さんだったのでしょう。だからこそ本当に孤独死だったのかは、わかりません。世間が思っているほど孤独死ではないのかもしれません。その真相は、謎のままです。
孤独死?死因は?大原麗子さんはベットで
大原麗子さんの早すぎる死

2006年8月6日に実弟は姉の大原麗子さんに連絡が取れないと成城警察に通報します。実弟と駆け付けたところ世田谷区の自宅のベットの上に横たわっている大原麗子さんを見つけます。既に息を引き取っていました。享年62歳という若すぎる死でした。
死因特定の為解剖まで

死因を特定するために、行政解剖します。その結果、死因は8月3日不整脈によって脳内出血したと言う解剖結果でした。死因を特定後、8月7日ご遺体は、遺族の元へ戻ってきます。翌日、親族などでひっそり密葬します。ごく近い親族で大原麗子さんは見送られました。
大原麗子さんの死因である不整脈とは
大原麗子さんの孤独死死因と言われる不整脈とは

基本的に不整脈とは、心臓の脈のリズムが乱れ一定のリズムでなくなることの事を言います。これを不整脈と言います。心臓の周りは、筋肉に覆われています。この心臓の筋肉に「洞結節」で作られた電気が伝導路を通り、心臓全体に刺激になります。その刺激で動くことが心臓の脈と言えます。

この電気を作る洞結節が、とても重要できちんと電気が発生できれば問題はありません。しかし、心臓へきちんと電気が刺激を与えないと不整脈となります。一般的に加齢に伴い不整脈が増えます。その他にも、睡眠不足や疲労、ストレスなどにより不整脈が増え、現代社会には起こりやすい病気とも言えそうです。
不整脈は怖くない!

心臓は平均して1日に10万回もバクバクと脈を打ちます。この脈が乱れると不整脈と言う病気なのですが、ここ10年ほどの間に、不整脈の治療方法が飛躍的効果的になりました。かなりの不整脈の方が治る病気として考えられています。

不整脈は大原麗子さんの死因となっていますが、不整脈=死と考えることは無さそうです。ただ、不整脈が引き起こす病気もありますので、むしろそちらの方を気にした方が良いでしょう。
孤独死を感じさせない大原麗子さんのお別れ会
晩年の苦しみや孤独死や死因などは全て忘れてのお別れ会

同じ月の8月23日に東京の青山葬儀所で大原麗子さんのお別れ会が営まれました。発起人は森光子さんで、他には浅丘ルリ子さん、石井ふく子さんなどそうそうたるメンバーでのお別れ会に、大原麗子さんの女優としての大きさを感じずにはいられませんでした。このお別れ会からは、孤独死や死因など全く感じられないのです。
美しすぎるお気に入りの1枚

祭壇に設けられた大原麗子さんの遺影は、本人が生前気に入っていた篠山紀信さんが撮った1枚の写真でした。凛とした美しさの中に、ちょっと可愛い雰囲気が感じられる大原麗子さんでした。その飾られた遺影の前で、弔辞が読まれました。
弔辞には大原麗子さんの孤独死前の苦しみも
お別れ会発起人の森光子さん

死因はともかく、孤独死なのかどうか真相がわからないままですが、どこか弔辞の中にヒントがあるかもしれません。まずは発起人である森光子さんです。

大先輩の森光子さんの弔辞は、内容は、大原麗子さんの女優としての素晴らしさ、そして晩年の病気との大きな戦いの苦しさ、つらさについて触れられていました。そして最後には、やはりみんなから愛された女優であった、と言う内容がつづられたものでした。
浅丘ルリ子さんの苦しい孤独死前の胸の内

次に、非常に重みのある心に残る弔辞だったのが、浅丘ルリ子さんでした。浅丘ルリ子さんとは30年ものお付き合いがあったとされています。その浅丘ルリ子さんの弔辞は非常に印象的でした。そして、大原麗子さんの苦しみが伝わってくるようなものでした。

その内容とは、何度も言い争いをしたこと、その事で距離を置き疎遠になったこともあったこと、夜中に不平不満を言うだけの電話など、浅丘ルリ子さんが大原麗子さんのはけ口になっていたことなどを告白します。

でもそれ以上に心にしみたのが、もっと姉として受け止めたあげれば良かった、という言葉と、可愛い愛しい妹を思う気持ちが読み上げられ、それを正直に述べられていました。浅丘ルリ子さんの心の葛藤を感じ非常に悲しい気持ちになった方も多かったかもしれません。
孤独死から6年の大原麗子さんの晩年を垣間見る
大原麗子さんは晩年、色々苦しい経験などされてきた中で、スペインの詩人サン・ファン・デ・ラ・クルスの詩が好きになり、部屋に貼ってあったといいます。

その詩人の「孤独な鳥」についてでした。1.孤独な鳥は高く高く飛ぶ。1.孤独な鳥は仲間を求めない同類さえ求めない。1.孤独な鳥は0嘴を天空に向ける。1.孤独な鳥は決まった色を持たない。1.孤独な鳥はしずかに歌う。

これはまさしく大原麗子さん自身についての生き方なのでしょう。大原麗子さん自身が孤独な鳥を選んだかの様です。また、孤独死の2年ほど前にも「死ぬときには、スーっとして消えて、そのままいなくなりたい」って言うようになったそうです。
国民的女優大原麗子さんの愛し愛された人生

ちょっと気の強い芯のある女優でありながら、内面では誰よりも傷つきやすい心を持った少女の様な女性だったのかもしれません。一部の心を許した方にしか、心を見せない分苦しみもあったのかもしれません。

でもそんな大原麗子さんには、森光子さん、浅丘ルリ子さん、渡瀬恒彦さん、そして高倉健さんが苦しい心や寂しさ、悲しみなどを受け止めてくれたのかもしれません。しかし、晩年はご紹介した通り、心の苦しみだけでなく、病魔との戦いもありました。

離婚後も優しく接してくれた渡瀬恒彦さんや、心から尊敬していた高倉健さんなど、本当に愛し愛されていた国民的女優の大原麗子さん。確かに、孤独死だったかもしれませんが、心は苦しまず、心穏やかにこの世を去ったのかもしれません。そういう意味では、単なる孤独死とは違ってると言えそうです。

死因からも、それほど長くは苦しくなかったかもしれません。もちろん、それ以上に苦しい時代が晩年はありましたから、最後くらいは、大原麗子さんのスッと消えたいという願いを神様も聞いてくれたのかもしれません。今は、愛し愛された方も一緒に空から、この世界を覗いているかもしれません。
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