吉川晃司の結婚相手の嫁や子供は?天海祐希との破局理由は?画像付きで紹介

元水球選手や戦国武将の末裔など、様々な伝説を持つロック歌手の吉川晃司。そんな吉川晃司はかつてあの天海祐希と結婚寸前にまで至っていたそうです。現在の吉川晃司は別の女性と結婚して嫁が居るのですが、天海祐希とはなぜ破局してしまったのでしょうか。

目次

  1. 吉川晃司の結婚相手は天海祐希!?
  2. 嫁や子供もしびれる画像が多い
  3. 天海祐希の前にとある相手との破局も経験
  4. 吉川晃司の独立後の苦悩
  5. 布袋寅泰との伝説のユニット「COMPLEX」
  6. 吉川晃司と天海祐希の結婚説
  7. 結婚した吉川晃司の嫁の情報
  8. 吉川晃司の最後の夢とは

吉川晃司の結婚相手は天海祐希!?

元水球選手や、戦国武将の末裔であるなど、様々な伝説を持つ吉川晃司。若い頃から男前だった吉川晃司だけに、その嫁となる人物の候補もいろいろと居たようです。

そういった吉川晃司の恋愛遍歴の中に、あの天海祐希が居たようなんです。また、吉川晃司と天海祐希はもう少しで結婚というところまで行っていたそうです。

しかし、結果的には吉川晃司と天海祐希は破局し、現在は別の女性と結婚して嫁と子供が居るそうです。そんな吉川晃司と天海祐希の破局までの話と、現在の嫁や子供の画像について紹介します。また、芸能界最強と言われる吉川晃司のかっこいい画像もまとめてみました。

誰もが結婚したくなる吉川晃司の経歴

吉川晃司は1965年8月18日生まれの52歳です。広島県安芸郡中町出身で、ロックミュージシャンであり俳優としての活動も有名です。また、ギタリストの布袋寅泰と組んでいたCOMPLEXも有名ですよね。

吉川晃司の実家は原爆が投下されるまでは、中国地方指折りの繁華街だった「中島地区」で、料亭「吉川旅館」を営んでいたそうです。

しかし、戦争の影響により、旅館を船本家というところに譲り、引っ越した後の一ヶ月後に原爆が投下されており、たまたま疎開していたことから難を逃れたんです。

ところが、父親は原爆直後に入市したため、「入市被爆」となっており、吉川晃司は被爆二世にあたるんです。

多くのエピソードを抱える吉川晃司

吉川晃司の父親は若い頃は、京都の太秦で大部屋俳優だったそうです。しかし、家業を継ぐために板前になったものの、店は家事になり廃業し、その後は喫茶店の経営やタクシー運転手、また管理職など仕事を転々としたそうです。

吉川晃司は、府中町立府中小学校出身で、修道中学校を経て、修道高等学校2年時に中退しているそうです。しかし、吉川晃司は、修道高等学校時代には、世界ジュニア水球選手権大会の日本代表に選ばれているんです。

また、2年連続で、日本高校最優秀選手に選ばれたほどの人物で、最年少日本代表として、イタリア・エジプト遠征にも参加しているんです。

修道中学校に入学した理由は、制服の袖の部分に2本の白線が入っていて、それがかっこよかったからという理由だったのだとか。しかし、広島屈指の進学校であり、合格しても授業にはついていけず、落ちこぼれのような存在だったそうです。

嫁や子供もしびれる画像が多い

同じ水泳部だった酒井麿に誘われて、ロックバンド「EIGHT CITYS FISH BAND」に加入し、バンド活動を並行してた中で、佐野元春のコンサートを見て、吉川晃司は大きなカルチャーショックを受けたそうです。そして、水泳ではなく、音楽一本で生きていくことを決意したそうです。

水泳とは破局するような形で音楽の世界へ

音楽の世界でビックスターになるために、スカウトされようとしたものの、広島の田舎でスカウトされることは厳しく、自ら「広島にスゴい奴がいる、見に来ないと一生悔いを残す」という手紙を書いて、渡辺プロダクションに送ったのだとか。

吉川晃司が渡辺プロダクションを選んだ理由は、当時、沢田研二やアン・ルイスがいたからなんだとか。その後、別の用事で、渡辺プロダクションが広島に訪れたところ、ついでに吉川晃司に本当に会ってくれたそうです。

その後、何度かオーディションを受けて、見事吉川晃司は渡辺プロダクション入りを果たしたんです。しかし、推薦で慶應義塾大学に水球で特待生として入学できる予定があり、両親や教師から猛反対されたそうです。

しかし、吉川晃司はそんな周囲の反対を押し切るどころか、高校を卒業後という誘いを無視して、なんと高校を中退して上京したそうです。

吉川晃司の昔の画像は今と違う魅力がある

東京では、スクールメイツと練習をこなしながら、当時のマネージャーの部屋に居候させられてしまったそうです。しかし、吉川晃司はダンスレッスンのかわりに、渋谷や新宿、そして六本木などのディスコで毎日踊り、当時の最先端のファッションや音楽などを取り込んだそうです。

それでもデビューさせてくれない事務所にしびれを切らし、吉川晃司は社長に直談判したそうです。そん男気を気にいった社長は、吉川晃司をデビューさせるために、社長自らが音頭を取って、プロジェクトチームまで立ち上げてくれたそうです。

実は、当時の渡辺プロダクションんは、金庫に3億円ほどしかお金がなく、最後の挑戦のような形だったようです。

吉川晃司の嫁や子供も驚きの「モニカ」

そして、吉川晃司は1984年2月1日にシングル「モニカ」でデビューしました。この曲は、同年2月11日公開の主演映画「すかんぴんウォーク」の主題歌にもなっています。

この曲が1984年度のオリコン年間22位で、売上枚数は33枚以上だったそうです。この曲で数々の音楽番組に出演し、曲中でバク転や足を垂直に上げる動作など、様々なパフォーマンスを行いました。

音楽番組「ザ・ベストテン」にもランクインし、母校の修道高等学校のプールサイドで歌い、最後にはバク転でプールに飛び込んだそうです。

その後も「サヨナラは八月のララバイ」や「LA VIE EN ROSE」、「ユー・ガッタ・チャンス」など、立て続けにヒット曲をリリースし、1984年の日本歌謡大賞最優秀新人賞を受賞し、日本アカデミー賞新人賞など、歌手と俳優で合わせて8つの新人賞を独占したんです。

天海祐希の前にとある相手との破局も経験

吉川晃司は1987年に「MARILYNE」という曲をリリースしています。実はこれは、当時の吉川晃司の恋人だった女優の石原真理子との恋愛実体験を歌詞にしていたんです。

また、石原真理子が2006年に発売した暴露本の「ふぞろいな秘密」で、石原真理子の13人の過去の交際相手として吉川晃司の名前が出ており、玉置浩二以外の人物の中で、結婚してもいいかなと考えたことがあった人物だったのだとか。

ちなみに、石原真理子は吉川晃司のMARILYNEのプロモーションビデオにも出演しており、吉川晃司の事務所もその関係を事実上認めていたそうです。

吉川晃司の独立後の苦悩

吉川晃司は、渡辺プロダクションが芸能プロダクションであり、バラエティ番組の出演も行っていたことから、どうしても吉川晃司はそのことが嫌だったそうです。

そのため、社長に独立を願い出たそうです。その言葉に対して、社長はインターナショナルで通用する映画を予定しており、それに出てくれたら独立を許すという条件を出したそうです。

この映画は1987年に日本・イタリア合作の映画「シャタラー」というものだったそうですが、撮影途中に社長は癌のため亡くなり、映画も大きく内容が変更されるなど、散々なものになったそうです。

社長は病床の中で、最後まで吉川晃司のことを心配していたのだとか。現在でも、何度も社長の墓参りを行っており、そのたびに叱咤激励される気分になるそうです。

布袋寅泰との伝説のユニット「COMPLEX」

独立した吉川晃司は、元BOOWYのギタリストである布袋寅泰とユニット「COMPLEX」を結成します。そして、1989年4月にシングル「BE MY BABY」をリリスし、大ヒットを記録しました。

しかし、わずか2枚のシングルと2枚のアルバムをリリースして、1990年11月8日の東京ドームライブをもって、活動を休止してしまったんです。

その早すぎる活動休止は、COMPLEXを伝説のロックユニットとして語り継がれるものにしたんです。二度と復活することは無いだろうと言われながらも、布袋寅泰の所属していたBOOWYと共に、もう一度見たいバンドとして名前が度々挙がっていました。

吉川晃司と布袋寅泰の活動休止の理由

純粋にロックをやりたかった吉川晃司と、音楽を、活動コンセプトやサウンドアプローチ、またビジネス面など様々な部分をトータルに考えていた布袋寅泰との方向性の違いが休止の理由だったようです。

最終的に飲み屋で掴み合いのケンカにまで発展したそうですが、二人共雑誌などのインタビューなどで、COMPLEXを結成しなければ、少なくとも友人を失うことはなかったと、その関係を後悔するような出来事だったようです。

しかし、長い年月を経て、お互いのわだかりもすでに解消していた中で、東日本大震災が起こり、吉川晃司提案で、東日本大震災復興支援ライブを行うことになり、東京ドームで21年ぶりにCOMPLEXは復活したんです。

そして、チケット代やグッズ、そしてそのライブ映像を収録したDVDなどの収益は6億7千万円以上だったようです。この収益全ては被災地の義援金として収められており、その収益なども細かく公開されています。もちろん、本人たちのギャラなども受け取らなかったそうです。

2日間で10万人以上の観客が集まり、伝説のロックユニットと言われたCOMPLEXの21年ぶりの姿は、まさに日本に大きな衝撃を与えるものだったんです。

吉川晃司と天海祐希の結婚説

天海祐希といえば元宝塚歌劇団月組のトップスターで、男役として大活躍した人物です。現在も多くの画像やCM、ドラマなどでその活躍を確認することができますよね。

実はこの美人な画像がたくさん存在する天海祐希が、かつては吉川晃司の結婚相手になりかけたことがあるんです。

二人の馴れ初めは天海祐希が出演していた舞台「阿修羅の鐘」だったそうです。そして、天海祐希は舞台を見に来てくれたお礼にと、吉川晃司のライブを見に行ったことで、二人は仲を深めたそうです。

2004年にはその関係が週刊誌で画像などを含めて取り上げられたようで、天海祐希も交際を認めるような発言もしていたようです。

吉川晃司と天海祐希の結婚を反対したのは?

この二人が結婚に至らず破局した理由には、まず天海祐希側のファンの反対があったと言われています。天海祐希の宝塚歌劇団時代のイメージを引きずっているファンが多かったのかはわかりませんが、画像などで野性的な雰囲気がある吉川晃司を認めたくなかったのでしょうか?

また、天海祐希の相手としては、収入の格差がある、と感じていたファンも居たようです。多くのドラマに出演していた天海祐希に対して、その相手である吉川晃司はお金よりも、自分の理想の活動を重視する印象が強かったのかもしれません。

実際、吉川晃司は大きなライブではなく、小さなライブハウスだったり、ファンから募金で写真集を作ったり、チャリティ活動を行ったりと、経済的な格差はあったかもしれませんね。

そのため、天海祐希のファンは、結婚相手としてはヒモ男のようになる吉川晃司を選んで欲しくなかったそうです。

天海祐希から結婚の申込みをしたものの破局?

ところが、一部の噂では、逆プロポーズのような形で、天海祐希が吉川晃司に結婚を申し込んでいたという噂もあるようです。

何より、結婚相手として天海祐希が吉川晃司にベタぼれだったと言われてるんです。画像では気の強そうな天海祐希ですが、実際は甘えたな女性だったのかもしれませんね。

しかし、吉川晃司は結婚の申込みを断ったようで、交際2年半ほどで破局してしまったようです。

吉川晃司は別の結婚相手候補が居た

吉川晃司は2011年5月31日にファンクラブのページで、一般女性との結婚を発表したんです。また、二人の間にはすでに子供が居たそうで、結婚するまで未婚の父状態だったことが明かされたんです。

どうやら嫁となった人物とは2008年ごろから交際していたようで、結婚したときには子供がすでに2歳ぐらいだったそうです。一部では天海祐希と破局する前から、嫁と交際していたなんて噂もあるようです。

嫁や子供に関する情報や画像は無いようで、普段から嫁も帽子を深くかぶって画像を撮られても分からないようにしているそうです。

噂によると嫁は堀北真希似とのことですが、今後も嫁や子供の画像は期待できなさそうですね。とはいえ、嫁候補がいたことや、結婚した時点で子供が2歳ぐらいになっていたなんて驚きですよね。

結婚した吉川晃司の嫁の情報

吉川晃司の嫁と子供に関しては様々な噂があるようですが、その噂を最後に紹介します。

どうやら、吉川晃司の嫁はバツイチで40代らしいんです。そして、ドラマの現場で知り合った元医療関係者で、吉川晃司の子供を出産した後は、故郷の富山県で暮らしていたそうです。

そして、東日本大震災などの経験から、かつては結婚すると男が錆びてしまうという考えだったのを改めて、正式に相手と結婚し、子供の存在も公表したわけです。

子供は女の子のようで、日本舞踊を習っており、吉川晃司は将来的には女優にしたいと子煩悩ぶりも見せているそうです。

吉川晃司の最後の夢とは

なんと吉川晃司は65歳には芸能界を引退して、長年温めていた、中国史に関する本を執筆したいという夢があるそうです。かつてはCDのオマケに恋愛小説のようなものをつけていたと言われる吉川晃司ですが、文筆業に興味があったなんて驚きですよね。

結果的には天海祐希と破局した吉川晃司ですが、嫁となった相手とは破局することなく、筋を通して結婚したわけですね。

2017年には左側声帯ポリープが見つかり、一時は音楽活動を休止していた吉川晃司。現在は手術も成功し、現在は以前のように精力的に音楽活動を行っているそうです。

その男気あふれる生き方に憧れる男たちも多く、今後もロック歌手として、そして俳優としてもかっこいい男であり続けて欲しいですよね。そして、いつか女優となった娘との共演を楽しみに待ちたいところです。

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