樹木希林の若い頃が可愛い!旧芸名や若い頃の内田裕也との画像など
大女優として活躍している樹木希林。そんな樹木希林が若い頃はとても可愛いという噂があるようです。そんな樹木希林の若い頃の画像を探してみました。また、樹木希林の芸名の由来や夫である内田裕也についても紹介します。若い頃の樹木希林の可愛い画像をチェックしてみましょう。
目次
樹木希林の若い頃の画像が可愛いらしい
現在も大女優として多くの映画に出演している樹木希林。そんな樹木希林の若い頃の画像が可愛いという噂があるようです。

映画の中では優しい見守り役から、ちょっと意地悪で不思議な役柄も多い樹木希林。そんな樹木希林の現在と若い頃の画像を見比べてみるのも面白そうですよね。

そんな樹木希林の若い頃の画像や、芸名の由来、そして夫である内田裕也についてまとめてみました。可愛いと噂の樹木希林の画像は、現在と同じくチャーミングな画像なのでしょうか。
樹木希林の若い頃から現在まで
樹木希林は1943年1月15日生まれの75歳です。旧姓は中谷、戸籍名は内田啓子、旧芸名は悠木千帆というそうです。

樹木希林は東京都神田区出身で、夫はロック歌手の内田裕也です。樹木希林の父親は薩摩琵琶奏者の錦心流の中谷襄水で、妹も薩摩琵琶奏者の荒井姿水なんだとか。また、息子も薩摩琵琶奏者の荒井靖水なんです。

樹木希林の若い頃の生い立ちは、母親が神保町でカフェを経営していたそうです。そういった家族構成の中で、樹木希林は市ヶ谷にある千代田女学園に入学し、演劇部に在籍していたそうです。

そして、同時に薬剤師を目指していたそうですが、大学受験の直前にスキーで足を怪我したことから、大学への進学を断念してしまったそうです。
樹木希林の若い頃の芸名は「悠木千帆」
そんなことがありながらも1961年に文学座付属演劇研究所に入り、芸名を「悠木千帆」として女優活動をスタートしたそうです。

若い頃の樹木希林は、現在の姿からはイメージしにくいかなり派手な若者ファッションで街を闊歩していたそうですよ。
1964年に森繁久彌主演のテレビドラマ「七人の孫」にレギュラー出演し、この事で樹木希林は一躍人気者になったそうです。
樹木希林が現在のように有名女優になったきっかけ
この作品は、森繁久彌扮する明治生まれの祖父を中心に、大正生まれの父母と七人の孫の織りなす大家族ホームドラマなんです。脚本家の向田邦子や演出家の久世光彦が売れっ子になったきっかけの作品でもあり、毎回森繁久彌が時事について取り上げるフリートークコーナーもあったんです。
最高視聴率は33.3%を記録したものの、当時はVTRを保存する体制が万全ではなかったこともあり、TBSには本作の映像が現存していないようです。
そのため、一般の視聴者たちが残してくれた音声が基本的な情報となっており、ある種の伝説的な番組となっています。後にスペシャル版が放送されており、多くのファンがその放送を喜んだそうですね。
若い頃から老け役が多かった樹木希林
1965年に文学座の正座員になった樹木希林ですが、1966年に文学座を退団しています。その後も、個性派女優として多くのドラマ、映画、舞台に出演しています。

そんな樹木希林は、20代の頃から老人役を演じており、出演するドラマや映画役では、実年齢よりもかなり年齢の離れた老け役が多く、またそんな老け役が樹木希林の当たり役となりました。
寺内貫太郎一家の画像は今でも伝説
樹木希林は1974年にTBSで放送されたドラマ「寺内貫太郎一家」で、小林亜星が演じた主役の貫太郎の実母を演じています。
樹木希林はこのとき、小林亜星よりも10歳以上若く、役のために頭髪を脱色して「老けメイク」を施して出演していたそうです。まだこのときは、30代前半だった樹木希林は、手の若さを隠すために、ドラマの中では指ぬき手袋を外すことはないという裏エピソードもあるんです。

また、ドラマの中で貫太郎が暴れだすと、樹木希林は離れに駆け込み、仏壇の横に貼られた沢田研二のポスターを眺めて「ジュリー!」と腰をフリながら悶えるシーンも話題になりました。
樹木希林の若い頃の芸名が変更になった理由とは
樹木希林はこの頃まで悠木千帆の芸名で活動していたんですが、1977年4月1日に「日本教育テレビ」から「全国朝日放送」への局名・会社名の変更を記念して放送された特別番組「テレビ朝日誕生記念番組・わが家の友だち10チャンネル・徹子のナマナマ10時間半完全生中継」で驚きのことを行います。

番組内のオークションコーナーで、樹木希林は売るものがないという理由から、自身の芸名である「悠木千帆」を競売にかけたんです。

そして、この名前は、2万200円で世田谷の飲食店店主に売却されており、芸名を「樹木希林」に改名したんです。また、売却された芸名は、2004年に飲食店店主から無償で、女優の山田和葉に譲渡されました。

この譲渡も、長年に渡り、芸名を譲渡して欲しいという依頼があったものの、店主は長らく拒み続けており、2004年になって、山田和葉に対して、この人なら良いと思ったことから芸名を無償で譲渡したそうですね。
樹木希林という芸名の由来とは
こういった非常にユニークなエピソードで、自らの芸名をオークションに売りに出してしまった樹木希林。そのため、樹木希林は新しい芸名を考える必要ができてしまいました。

樹木希林は新しい芸名として、同じ音が続く名前にしたいということを考えて生まれたの「樹木希林」という芸名だったそうです。

また、帰依している宗教にちなんだ名前だという噂もあるそうですね。とはいえ、一度聞いたら忘れられない芸名であり、同時にふと名前を書こうと思っても漢字がわからない芸名というあたりも、さすが樹木希林といえるかもしれませんね。
若い頃の可愛い樹木希林
ここまで、若い頃の可愛い樹木希林の画像を貼ってきましたが、とってもチャーミングで、ちょっと悪戯っぽいっぽい笑顔が印象的ですよね。
樹木希林に芸名を改名してからは、ドラマ「ムー」、「ムー一族」で共演した郷ひろみとデュエットで「お化けのロック」、「林檎殺人事件」をリリースし、これも大ヒットしているんです。
現在はおばあちゃんの雰囲気がとても強い樹木希林ですが、若い頃から老け役を演じることも多く、逆にプライベートな画像ではとても可愛い洋服を着ているのが印象的ですよね。
若い頃からトラブルメーカーではあったらしい
樹木希林は1971年1月に「ムー一族」の打ち上げパーティーで、樹木希林は最後のスピーチを担当したそうです。そして、その中で、番組プロデューサーの久世光彦と近松屋のともこ役ののぐちともこが、不倫関係であり、妊娠8ヶ月であることを暴露したんです。

このことは大きなスキャンダルとなり、関係者の中ではあくまで、公然の秘密であったこととされていたものの、久世光彦は事実を認めて、後に正式にシコンしてのぐちともこと再婚することになるんです。

久世光彦はこの責任を取るような形で、TBSを退社して制作会社「カノックス」を設立しています。
その後、樹木希林と久世光彦は1996年放送のドラマ「坊っちゃんちゃん」まで絶縁状態になってしまったんです。
役柄同様なおせっかいな性格なのかも
樹木希林はこの行為に関して、久世光彦があのような状況の中で、なし崩しにショボショボしていくのに耐えられなかったようで、二人の気持ちを軽くしてあげたいという思いがあったそうです。

また、樹木希林の行動を批判する声に対しても、そういった見せかけの優しさが久世光彦をダメにしていたと持論を展開するなど、良い意味でも悪い意味でもおせっかいな性格なのかもしれませんね。
若い頃からトラブル続きだった夫・内田裕也
樹木希林は1964年に俳優の岸田森と結婚していますが、1968年に離婚しています。そして、1973年10月にロック歌手の内田裕也と再婚しています。
本当にこの夫である内田裕也とのエピソードは様々存在しているようです。そもそも、樹木希林と内田裕也は結婚して一年半で別居しており、その後もずっと別居生活を続けているそうです。
また、1981年には内田裕也が無断で離婚届を区役所に提出するものの、樹木希林は離婚を認めず、離婚無効の訴訟を起こして勝訴しているんです。

その後も、一年に一度ほど連絡を取り合う関係になっていますが、2005年1月に樹木希林に乳がんが発覚し摘出手術を受けたことから、連絡は一ヶ月に一回に変わったそうです。また、以降は毎年1月に一緒にハワイで過ごすようになったそうです。

ちなみに、樹木希林と内田裕也の間には一人娘の内田也哉子がいるそうです。若い頃から可愛い雰囲気がある樹木希林ですが、この結婚生活は本当に大変なものだったようです。
樹木希林と内田裕也の結婚生活
樹木希林と内田裕也の若い頃の結婚生活は、内田裕也によって毎晩暴力を受けるような生活だったようです。樹木希林が別居を決断した理由も、内田裕也の暴力が原因だったそうですね。

もちろん、樹木希林もやられっぱなしではなく、電話の受話器で内田裕也の頭を殴ったこともあるそうです。また、内田裕也の浮気に関しては、まったく黙って追求することはなかったようです。

その後、内田裕也が交際していた会社員の女性を脅し復縁を迫ったとして捕まった際も、樹木希林は、悪事を晒してもらって逆にありがたかったという風に、非常にユーモラスに夫の尻拭いもしているんです。
樹木希林ならではの恋愛観?
どうも内田裕也は、その女性が以前付き合っていた男性に貢いだお金を返してもらえないと内田裕也に相談したようで、実際にその男と取り合ってお金を返させたことが交際になったきっかけだったようです。

また、東日本大震災の慰問をした際に、内田裕也はかなりショックを受けたようでうつ病に近い状態になってしまったそうです。復縁を女性に迫った理由も、傷ついた心の癒やしを求めたのでは?と樹木希林がフォローしたようで、どこか内田裕也をかばう場面もあったようです。

先程の離婚を無効にしたやり取りからも考えられるように、樹木希林独特の恋愛観がそこにはあるのかもしれません。
若い頃から陽気な樹木希林だが…
樹木希林は2003年1月に網膜剥離のため左目を失明しているそうです。また、2013年3月8日に日本アカデミー賞最優秀女優賞を受賞し、そのスピーチにおいて、全身がんであることを発表したんです。

2014年1月16日に1年半ぶりにがん治療が終了したことを発表したものの、樹木希林自身もいつ何かがあっても良いように準備しているということも発表したようです。

また、そんな樹木希林に対して内田裕也は、ハンコを分かる場所に置いておくように伝えたそうで、夫婦のため財産の半分を貰う権利があると伝えたそうですね。そんな内田裕也に樹木希林はロックには負けると笑ったそうです。

樹木希林は「四次元ピンポイント照射療法」というものを行っているそうです。2004年に乳がんが発覚し、翌年に右乳房を全摘出した樹木希林ですが、2007年からはこの治療法を行っているそうですね。
死ぬときぐらい好きにさせてよ
樹木希林は2016年に、新聞広告で「死ぬときぐらい好きにさせてよ」と終活宣言を行ったことで話題になりました。

洋画家の名作と重ね合わせた美しく、どこか可愛い雰囲気もあるビジュアルと「死」をテーマにした衝撃的なキャッチコピーとなっているんです。

現在も女優として変わらず出演している樹木希林ですが、死は特別なものと捉えられているが、死というものは決して悪くないということを伝えたいという思いが、この広告につながったそうです。
樹木希林の血を受け継いだ孫たちも活躍
樹木希林の娘である内田也哉子は、俳優の本木雅弘と結婚しており、その長男であり樹木希林の孫にあたる孫の雅楽(うた)が、モデルとして活動しているんです。

モデルとしての活動名はUTAとなっており、パリコレクションでデビューを飾っているんです。樹木希林は芸能界に2世、3世のタレントがいるものの、どこか遺伝子的にそういったものを受け継いだから、そういった道を選ぶと考えているようですね。

また、現在も女優として多くの作品に出演している理由には、制作側が潤沢な資金が用意できず、どうにかして女優を探しているときに話が回ってくると「自分でよければ」と出演のオファーを受けるそうです。

地位や名誉にも興味が内容で、可愛い若い頃から現在まで活動してきた樹木希林には、たくさんのトロフィーがあるそうです。しかし、そんなものも、置き場にただただ困るだけらしく、芸人というものはスッと消えていくほうが良いと思っているぐらいなんだとか。
樹木希林は現在も唯一無二の存在
樹木希林の若い頃から現在までを紹介しました。若い頃の画像はとても可愛いものが多く、また良い意味でその雰囲気は現在まで変わることがないといえます。

何よりも若い頃から現在まで、唯一無二といえる存在感を持ち続けているのがスゴいですよね。樹木希林は、自分のような人間を押しのけるぐらいの存在が出てくることを望んでいるようですが、現実的には樹木希林を超える存在が出てきていないんですよね。

最近では、後進の指導にもあたっているという樹木希林。高齢になってもその作品に出るスピードは衰えることがないのも驚きですよね。

終活宣言まで行っている樹木希林が、今後、どのような作品を残していくのかを看取るというのが、我々の出来ることなのかもしれませんね。
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