中森明菜と近藤真彦の金屏風事件とは?破局理由はメリー?会見動画とは!
80年代を代表するアイドル歌手の中森明菜。ひまわりのような明るい笑顔が印象的な中森明菜でしたが、近藤真彦との金屏風事件を機に、その笑顔は失われることになります。中森明菜が自殺未遂から近藤真彦と行った金屏風前の記者会見についてまとめてみました。
目次
中森明菜と近藤真彦の金屏風事件とは
80年代を代表するアイドル歌手の中森明菜。現在でも当時の動画は人気で、動画の中で楽しそうに歌う中森明菜に励まされる人も多いはずです。しかし、そんな笑顔は動画の中では変わらないのですが現在の中森明菜は当時のような姿とは大きく変わってしまったといえます。

中森明菜は自殺未遂を起こしており、その原因は近藤真彦との破局が理由だったと言われています。自殺未遂を起こしたことで、中森明菜は近藤真彦と共に金屏風を前に記者会見を行い、自らの行為を謝罪しています。しかし、なぜ中森明菜と近藤真彦は金屏風を前に記者会見を行ったのでしょうか。

いまだに芸能界の闇を感じさせると言われる中森明菜と近藤真彦の金屏風事件についてまとめてみました。当時の会見の動画の異様な雰囲気と合わせて、その闇を振り返って見ましょう。
80年代を代表する歌姫・中森明菜
中森明菜は1965年7月13日生まれの53歳です。東京都大田区生まれの清瀬市育ちで歌手や女優として活躍した人物です。所属事務所は研音→コレクション→コンティニュー→N.A.P.C→楽工房→FAITHとなっています。また、現在の所属レーベルは私設レーベルの歌姫レコーズです。

幼少期は、邦楽では松任谷由実や矢沢永吉、洋楽ではカーペンターズを好んで聞いていたそうです。また、姉や兄がディスコミュージックやソウルミュージックを聞いていたことからブラックミュージックも自らの音楽のルーツとなっているそうです。

中森明菜は6人兄弟の5番目の三女として誕生しています。また中森家の兄弟姉妹たちは父親の名前にちなんで「明」がつく名前になっており、中森明菜も同様の理由から名前がつけられたそうです。4歳から14歳のときにはバラエ教室に通っており、やがて母親の影響から歌手の夢を抱くようになったそうです。
「スター誕生!」からデビュー
そして、中森明菜は日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生!」に何度も挑戦するようになったそうです。1981年にスター誕生!の本選3度目の挑戦を行い、山口百恵の「夢先案内人」を歌い、同番組史上最高得点の392点で合格しました。

その後、日本テレビ音楽学院でボーカルとダンスレッスンを受けて、12月6日放送分の決選大会で、再び夢先案内人を歌い、合計11社のレコード会社や芸能プロダクションから獲得の意向を示すプラカードが上がりました。その中から、中森明菜は研音とワーナー・パイオニアとのレコード契約を決めました。

中森明菜は1982年5月1日にシングル「スローモーション」でデビューしました。中森明菜のキャッチフレーズは「ちょっとエッチな美新人娘(ミルキーっこ)」というものでした。

同年7月にファーストアルバム「プロローグ」を発売し、オリコン週間アルバムランキング最高位5位を記録しています。続くセカンドシングル「少女A」でも最高位5位を記録し、この曲がきっかけで中森明菜はブレイクしました。
「スローモーション」や「少女A」など名曲多数
セカンドアルバム「バリエーション」が初の週間1位を獲得し、74万枚を超えるヒットとなりました。その後もリリースするシングルやアルバムは大ヒットし、80年代を代表するアイドル歌手へと進化していきました。また、中森明菜の特徴は衣装・メイク・振付に自身が関わっており、楽曲制作にも積極的に意見を取り入れたというものです。
1983年のブロマイド売上実績の女性部門で中森明菜が首位に輝き、1984年11月には井上陽水から楽曲提供を受けた「飾りじゃないのよ涙は」をリリースしています。この曲は中森明菜にとってアイドルからシンガー、そしてミュージシャンへの転機となった楽曲です。
そして、中森明菜は1985年1月公開の映画「愛・旅立ち」で近藤真彦と共に主演を務めています。同時に3月には11枚めのシングル「ミ・アモーレ」がヒットし、第27回日本レコード大賞で日本レコード大賞を受賞しています。
金屏風につながる中森明菜と近藤真彦の馴れ初め
中森明菜と近藤真彦は映画を始め、アイドル雑誌などで多く共演しています。二人共同時期に有名になったアイドルだけに、惹かれ合う関係だったようです。また、もともと中森明菜はデビュー前から近藤真彦の大ファンだったとも言われています。
特に「愛・旅立ち」で共演したことで二人は急接近したそうで、この後に交際するようになったと言われています。しかし、今はもちろん当時もアイドル同士が交際するというのはご法度なことだったわけです。
ところが、そんなスクープを逆手に取った芸能事務所は、中森明菜と近藤真彦を音楽番組で共演させ、半ばオープンな交際関係に仕立て上げていくことになります。普通なら交際の噂がある二人を同じ画面に写すよりも、距離を置かせるものですが、あえて話題にさせるような形にされてしまったわけです。
二人の交際は順調だったようだが
中森明菜はデビューするにあたって、整形とまではいかないまでも歯をきれいに整えてもらい野暮っぽかったメイクなどを改善して、年齢に比べて非常に大人っぽい女性へと成長しました。また、その抜群の歌唱力は憧れだった山口百恵に匹敵するものになり、男性からも女性からも支持される存在になっています。

しかし、当時のアイドル業界というのは非常に黒い闇の部分が多かったようで、中森明菜の活躍を良い風に思わなかった業界関係者も多かったそうです。同時期の松田聖子などと合わせて、それぞれの事務所が足を引っ張り合うようなスキャンダルをリークさせるなど、裏では非常にストレスが掛かる毎日だったようです。

中森明菜と近藤真彦の関係も、写真週刊誌などを通じてスクープされておりトップアイドル同士の熱愛疑惑は大きな話題になりました。周囲はそんな関係はうまくいかないと反対する人も多かったようですが、二人は少ない時間でも一緒に過ごして、その愛を育んでいったそうです。
近藤真彦の経歴
中森明菜との熱愛が噂された近藤真彦は1964年7月19日生まれの54歳です。神奈川県大和市出身で、ジャニーズ事務所に所属する歌手です。実は近藤真彦は役員を除くと、現在のジャニーズ事務所所属のタレントでは最年長なのです。

1977年に近藤真彦は中学1年生のときにジャニーズ事務所に入所しています。1979年10月にTBSドラマ「3年B組金八先生」の生徒「星野清」役でデビューし、同じ生徒役だった田原俊彦と野村義男とともに「たのきんトリオ」として活躍しました。
1980年12月に「スニーカーぶる~す」でソロ歌手としてデビューした近藤真彦。このころから1980年代を代表する男性アイドルとなり、「ザ・ベストテン」や「ザ・トップテン」などの歌番組で活躍することになります。
アイドル歌手として活躍
1987年に日本レコード大賞で「愚か者」で大賞を受賞しており、ファンによる数々の親衛隊も登場しています。ステージ用の応援コールまで作られており、女性ファンだけでなく、男性ファンも多くいたそうです。また、歌番組だけでなく、ドラマや映画にも出演するようになり俳優としても人気を獲得しました。

このように近藤真彦は中森明菜と共通点が多く、80年代を代表するアイドル歌手として活躍しており、いかに二人の交際が大きなニュースとしてスクープになったかが分かりますよね。
近藤真彦の活動の中で、もう一つ無視できないのがドライバーとしての活動です。1984念に富士フレッシュマンレースに日産のマーチで参戦したのを皮切りに、星野一義のもとでレース活動を始めています。1988年から1993年にかけて全日本F3選手権に参戦しています。
アイドル全盛期だった近藤真彦がレースにドライバーとして参戦することも大きな話題になりましたが、この近藤真彦のドライバーとしての活動が、中森明菜との破局につながっていくことになりました。
中森明菜と近藤真彦の破局と自殺未遂
中森明菜は1989年7月11日に自殺未遂を起こして病院に緊急搬送されました。この中森明菜が自殺未遂を起こした現場は、近藤真彦の自宅であり、その傷は左肘への自傷行為だったそうです。しかし、実は右手も切りつけていたそうで、一歩間違えば本当に死んでしまうような傷だったそうです。

中森明菜が近藤真彦の自宅で自殺未遂を行ったことから、二人は破局することになり、そのことを受け入れられなかった中森明菜が自殺未遂を起こしたと大きな騒ぎになったのです。
自殺未遂の原因となった破局の理由とは
このとき近藤真彦は自宅には留守で、中森明菜が一人で自宅にいるときに自殺未遂を起こしたわけです。ワイドショーではその自殺未遂の原因は、恋人関係が破局したためと報じたようですが、なぜ二人は破局することになってしまったのでしょうか。そこには2つの破局理由があったようです。

まず破局の理由となったのは中森明菜が近藤真彦に結婚を迫ったことだったようです。中森明菜は子供も欲しかったと言われており、結婚を強く望んでいたようです。しかし、近藤真彦からすれば恋人関係までは良かったものの結婚となれば簡単なものではなかったようです。

今でもジャニーズの結婚はグループにつき一人までという暗黙のルールがあると言われるほど、結婚に関しては様々な制約があると言われています。当時、トップアイドルだった近藤真彦が結婚するとなれば自分の気持ちだけで決められるものではなかったと言えるでしょう。
また、近藤真彦自身の結婚までは考えていなかったという噂もあるようです。それだけに真剣だった中森明菜は追い詰められて自殺未遂を起こしたというのがひとつの理由だったようです。
中森明菜が近藤真彦に貢いだ数億円
破局のもう一つの理由には、中森明菜が近藤真彦に数億円を貢いでいたことが原因という意見もあるようです。普通に考えれば当時のトップアイドルの近藤真彦がお金に困るというのは疑問がありますよね。なぜ、それほどのお金が必要だったかというのが、さきほどの「レースドライバーとしての資金」だったというわけです。

レースドライバーとして多額の資金が必要だった近藤真彦は、ジャニーズからも借金をしていたと言われています。近藤真彦はジャニーズ事務所の社長であるジャニー喜多川の大のお気に入りだったため、好きなことをするのを許されていたようで、そのための資金も提供していたようです。

しかし、それだけではお金が足りず中森明菜にお金を貢いでもらっていたようなのです。どうやら結婚資金のためや、二人で暮らす新居のための資金としてお金を相談していたようですが、実際はレースにかかるお金として使い込んでいたようです。
芸能史上最も不思議な金屏風記者会見
事件後に中森明菜は近藤真彦の新居に匿われることになります。マスコミは姿を消した中森明菜を必死になって追いかけており、年の瀬になってやっとそのことを突き詰めたそうです。つまり、中森明菜と近藤真彦は事件後も同棲を続けていたというわけなのです。

その中で起きたのが、1989年12月31日に行われた中森明菜と近藤真彦の金屏風前で行われた記者会見なのです。マスコミは、事件後も同棲を続けていたことから、近藤真彦が破局ではなく事務所の反対を押し切って結婚する準備を進めていたと考えていたようです。
自殺未遂事件の記者会見動画は異様
現在も事件後に行われた記者会見動画を確認することが出来ますが、金屏風を前にして着席した二人には何とも不思議な雰囲気が漂っていました。中森明菜はこの記者会見の数日前の28日に新事務所の設立を発表しており、二人の記者会見は新たな門出を祝う婚約発表だと噂されてスタートしました。
しかし、いざ金屏風を前にして行われた会見は婚約発表ではなく、謝罪会見だったのです。実は中森明菜は直前までそのことを知らず、本人は近藤真彦の口から婚約発表が行われると思っていたようなのです。
動画を確認すると分かるように会見は、最初は中森明菜だけでスタートしています。中森明菜はこの直前に婚約発表ではなく謝罪会見のための場であることを知らされたようです。自殺未遂を起こしたことに関する謝罪が行われ、途中になってから近藤真彦が同席することになります。
動画において近藤真彦は中森明菜が復帰できたこと、新しい事務所でスタートできることを祝うコメントをしているものの、中森明菜との関係については結婚する気は無かったとも取れる冷たいコメントをしているのです。
金屏風の動画によって事件の謎は深まるばかりだった
結局のところ、現在になってもこの動画から伝わる異様さは変わっておらず、何一つ事件の真相はわからない動画になっています。この動画は生放送として当時流れたものであり、事件の真相は不明な部分が今でも多いのです。

例えば、中森明菜が緊急搬送されたときに一番始めに中森明菜に近づいたのがジャニーズ事務所のメリー喜多川だと言われており、様々な噂を中森明菜に吹き込んだと言われています。このことが中森明菜が事務所を辞めて新事務所を設立した理由だと言われているんです。

ここにはメリー喜多川が近藤真彦と中森明菜を引き離すためのデマを吹き込んだと言われており、精神状態が不安定な中で駆け寄ってきたメリー喜多川の言葉を信じてしまったと言われています。その後の中森明菜は以前のような姿を取り戻すことはなく、何度も事務所を移籍したり仕事を休んでおり表舞台から距離を置くようになりました。

現在の中森明菜は事件の影響もあり、昔の動画のようなハツラツとした姿ではなく、異様に痩せこけてしまっています。活動は再開しているものの、ディナーショーを時々行う程度になっており、リリースされる楽曲も過去の焼きまわしのようなものばかりになっています。

もともと精神的に不安定な部分があったと言われる中森明菜。そんな中森明菜に近藤真彦は結婚までは考えられなかったと言われています。しかし、あのお祝いで使われる金屏風を前にして行われた記者会見は異様なものだったのがよく分かりますよね。

マスコミも金屏風を前にして婚約発表が行われると思っていただけに、あの金屏風を最初に見た中森明菜もまさか謝罪会見だとは思わなかったでしょうね。金屏風を前にして行われた中森明菜と近藤真彦の会見は芸能史における闇を深く感じさせるものだったと言えそうです。
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