演出家・浅利慶太が死去。死因や生い立ち・経歴は?【劇団四季創設者】

劇団四季の創設者として有名な演出家の浅利慶太が死去との報道が入ってきました。日本のミュージカル史に欠かせない人物の浅利慶太、その生い立ちとはどのようなものだったのでしょうか。死去までの浅利慶太について詳しく見ていきましょう。

目次

  1. 偉大な演出家の浅利慶太が死去
  2. 浅利慶太の死去の原因となった死因について
  3. 過去に3回もの結婚を経験していた!
  4. 浅利慶太は劇団四季の創設者!死去で日本のミュージカル史に激震
  5. 浅利慶太の生い立ちから死去について まとめ

偉大な演出家の浅利慶太が死去

日本のミュージカル史において欠かす事の出来ない演出家、浅利慶太。2018年7月18日に、浅利慶太の死去の知らせが突如入ってきました。享年85歳と言う事です。劇団四季の創設以外にも演劇に関わり、政府の教育再生会議委員にも就任しています。さらに、自身の浅利演出事務所も立ち上げ、その人生は演劇に全てを注いだと言っても過言ではありません。

浅利慶太の死去を受け、ここでは浅利慶太の生い立ちや演出家としての偉大な経歴を詳しく見ていきましょう。浅利慶太の私生活は、まるで映画のように様々な出来事がありました。過去には3回結婚を経験しており、その結婚生活などについてもご紹介していきます。また、劇団四季の創設について、死去の原因となった死因についてもご紹介していきます。

・愛称:???
・本名:???
  ・生年月日:1933年3月16日~2018年7月13日
  ・現在年齢:享年85歳
  ・出身地:東京都
  ・血液型:???
  ・身長:???
  ・体重:???
  ・活動内容:演出家、実業家
  ・所属グループ:なし
・事務所:浅利演出事務所
  ・家族構成(娘、父、旦那、嫁、兄など):二代目市川左團次(大叔父)、浅利鶴雄(父)、野村玲子(妻)

まずは浅利慶太について詳しくご紹介していきます。浅利慶太は、芸能一家の元に生まれています。父親も偉大な人物で、築地小劇場の設立に参画した映画俳優の浅利鶴雄です。

浅利鶴雄は、三田英児の名で活動しており、映画俳優としてだけでなく演劇プロデューサーとしても活躍をした人物です。今の浅利慶太の活躍は、父親の影響があったのかも知れません。

浅利慶太の出身校は、高校は慶応義塾高等校を卒業しています。大学は、慶応義塾大学文学部仏文学専攻に進学していますが、中退しています。浅利慶太の生い立ちを語る上で欠かす事の出来ない劇団四季の創設に関しては、とても重要な事になるので後ほど詳しくご紹介していきます。劇団四季の創設以外にも、浅利慶太は実業家として活躍をしています。

その活躍について見ていくと、1961年には日生劇場製作営業担当取締役に就任しています。また、1969年、日本ゼネラルアーツを設立しています。また、1998年に開催された長野オリンピックでは、開会式の総合プロデューサーとしても活躍をしています。2006年10月には、なんと政府の教育再生会議委員に就任していた事も分かりました。その活躍は、演劇だけでなかった事に驚かされてしまいます。

そんな浅利慶太は、2015年3月に新事務所として浅利演出事務所を設立し、社長に就任しています。劇団四季の活動に大きな影響を与えていた浅利慶太ですが、その活動とはさらに別に独自の演劇活動を行っていたのです。しかし、新事務所を設立後も劇団四季の演出家としては携わっていたようです。

浅利慶太の死去の原因となった死因について

このように、演劇だけにとどまらず実業家としても名をはせた浅利慶太ですが、死去の報道が出たのは2018年7月18日の事です。偉大な人物なだけにあり、その死去の報道は瞬く間に各メディアが取り上げて話題となっています。日本の演劇界に新風を巻き込んだ浅利慶太と称し、その偉大な功績を讃え敬意を表して各局が訃報を伝えています。

浅利慶太が死去したのは2018年7月13日、東京都内の病院で亡くなったと報じられています。死因についても公表されており、死因は悪性リンパ腫だった事が分かっています。浅利慶太の死因である悪性リンパ腫は、血液の癌でリンパ系組織に発生するとされています。リンパ腫には良性はなく、発生した物全てが悪性と言う事になるそうです。

リンパ系組織は全身をめぐっており、悪性リンパ腫になると癌が転移しやすく、完治する事がとても難しい病気なんだそうです。浅利慶太の死因は、悪性リンパ腫としか公表されていない為、どこに発症していたのかについては不明です。悪性リンパ腫の主な発生する場所については、首や股の付け根、腋(わき)などがあります。いずれも主な症状は腫れる事のようです。

過去に3回もの結婚を経験していた!

さて、浅利慶太の生い立ちの中には3回の結婚があります。3回と聞くと少し驚いてしまいますが、何よりも驚くのがその歴代の妻です。最初に浅利慶太が結婚したのは、藤野節子です。浅利慶太よりも5歳年上で、1986年5月19日に亡くなっています。女優としてドラマや舞台を中心に活躍をしており、浅利慶太と共に劇団四季を創設した1人でもあります。

浅利慶太と藤野節子の馴れ初めなどについては不明で、詳しい結婚の日にちや離婚についても情報はありませんでした。そして、2人目の妻となったのは同じく女優の影万里江です。影万里江は、劇団四季の主役女優として活躍をしていた人物です。1981年2月28日に亡くなっており、亡くなったのは浅利慶太と離婚後でしたが浅利慶太の実家の墓に埋葬されています。

影万里江との離婚後、浅利慶太は長く結婚しない生活を送っています。しかし、2003年には現在の妻である野村玲子と結婚する事になります。野村玲子は、劇団四季に所属しておりミュージカル女優として活動をしています。演技力がとても評価されている日本を代表するミュージカル女優で、華やかさやスター性もあり国内だけでなく国外からも高い評価をされています。

浅利慶太は劇団四季の創設者!死去で日本のミュージカル史に激震

さて、浅利慶太の人生で一番重要な劇団四季の創設について見ていきましょう。浅利慶太は、慶応義塾大学に在学中に劇団四季を創設しています。なぜ浅利慶太が演出家としてもかなり有名なのかは、この劇団四季の創設が大きく関係してきます。と言うのも、劇団四季が創設されるまでの日本の演劇と言うと、日本舞踊などの古典的な演劇が主流だったのです。

そこに、アメリカの文化が色濃いミュージカルを浅利慶太が劇団四季として日本に取り入れたのです。日本の演劇界に新風を巻き込んだとは、まさにこの事です。劇団四季でも一番有名とも言える「ライオンキング」などを翻訳して舞台にするなどして、浅利慶太は劇団四季を有名にしています。また、「ユタと不思議な仲間たち」などのオリジナルミュージカルも公演しています。

劇団四季は、当初はストレートプレイ専門の劇団でした。現在のようなミュージカル形式になったのは、演出家としての浅利慶太の大きな影響があります。浅利慶太は、海外プレイに頼らないミュージカルを作る為にも、先ほどご紹介した作品のように「劇団四季オリジナルミュージカル」や「劇団四季ファミリーミュージカル」を演出家としてプロデュースしていたようです。

現在の劇団四季は、年間約3500公演も公演を行っているそうです。1日に考えると、9~10公演行っている計算になります。これは、日本の数ある劇団でもトップを飾ります。この劇団四季の成長には、政治家との関係を背景にした莫大な集金、集客があったとされています。

2014年6月に、浅利慶太は劇団四季の代表取締役兼社長を退任しています。しかし、退任後も劇団四季の演出家としては関わっていたようです。日本を代表する大劇団、劇団四季は浅利慶太の高い演出家としての技術があったからこそここまで成長したのではないでしょうか。退任後も演出家として劇団四季に携わっていたという事で、今後さらに浅利慶太が演出していた舞台が注目されそうです。

浅利慶太の生い立ちから死去について まとめ

日本の演劇界に、ミュージカルという新しい新風を巻き込んだ浅利慶太。劇団四季の創設や演出だけでなく、様々な実業家としての活躍を見せていた事も分かりました。演劇界にその人生を捧げ、死去の3年前には新しく浅利演出事務所を創設しており、まだまだこれからの活躍が期待されていただけに今回の知らせは大きな悲しみを呼んでいます。

しかし、浅利慶太の残した数々の作品はこれからも名作として語り継がれていく事でしょう。今回の浅利慶太の死去の知らせを受け、浅利慶太の演出したミュージカルなどが再び注目を集める事は間違いありません。一度、劇団四季の舞台を見に行ってみてはいかがでしょうか。日本の今のミュージカルを作り上げた浅利慶太の功績を讃えると共に、ご冥福をお祈りいたします。

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