酒鬼薔薇聖斗の母親がおかしい?異常言動や両親のしつけ方まとめ

1997年に神戸連続殺傷事件を起こした犯人の酒鬼薔薇聖斗は当時14歳でした。その後マスコミの取材等により、酒鬼薔薇聖斗の両親、とくに母親の言動のおかしい部分、異常性が明かされます。この記事では酒鬼薔薇聖斗の両親、とくに母親のおかしい言動をまとめました。

目次

  1. 酒鬼薔薇聖斗が起こした異常かつ残酷な事件について
  2. 家庭に問題があるとされた酒鬼薔薇聖斗
  3. 事件前から酒鬼薔薇聖斗の言動は異常だった
  4. 酒鬼薔薇聖斗の母親のおかしい言動
  5. 酒鬼薔薇聖斗が逮捕された後の両親の言動
  6. 酒鬼薔薇聖斗の両親は遺族に断りなく手記を出版した
  7. 酒鬼薔薇聖斗の両親の現在

酒鬼薔薇聖斗が起こした異常かつ残酷な事件について

鬼薔薇聖斗の母親のおかしい言動を語る前に、酒鬼薔薇聖斗が起こした事件について説明する必要があります。2人の小学生が死亡し、3人が怪我をした一連の事件は「神戸連続児童殺傷事件」と呼ばれています。犯人は14歳の少年でしたが、一部の写真週刊誌では実名や顔写真が掲載されました。

神戸連続通り魔事件を起こす

酒酒鬼薔薇聖斗は1997年2月10日に兵庫県神戸市須磨区の路上で、当時神戸市立南落合小学校に通っていた小学校6年生の女児2人を万引きして手に入れた金槌で殴りつけ、怪我を負わせました。被害者のうち、1人は軽傷でしたが、頭を殴られたもう1人の女児は入院します。被害者の証言により、犯人は神戸市立友が丘中学校の制服を着ていたことが分かりました。

被害者の父親は友が丘中学校に生徒のアルバムを見せるように求めましたが、学校側は生徒のプライバシーを理由にこの申し出を拒否しました。被害者の父親は交番に相談しましたが「中学校と交渉する」と言ったきり、中学校への連絡は行わなかったそうです。この時に警察が捜査を行っていれば、後の酒鬼薔薇聖斗の犯罪は防げたかもしれません。

山下彩花さんを殺害

1997年3月16日、酒鬼薔薇聖斗は神戸市内の小学校に通っていた山下彩花さん(当時小学4年生)の頭を金槌で殴りつけ、小学3年生の女児の腹部を刃物で刺して重傷を負わせました。重体に陥った山下彩花さんの頭蓋骨は粉砕骨折しており、3月23日に入院先の病院で死亡しました。

当時酒鬼薔薇聖斗が通っていた友が丘中学校の生徒が容疑者とされた2月の事件とは違い、3月の事件の容疑者は薬物を吸っていた20代の男性と報道されていました。このため酒鬼薔薇聖斗は「自分が逮捕されることはない」と考えたそうです。また、酒鬼薔薇聖斗はこの事件を機に、大学ノートに「犯行メモ」を書き始めました。

土師淳君を殺害

1997年5月24日に、酒鬼薔薇聖斗は当時小学6年生だった土師淳君を「亀がいるから見に行こう」と言って、地元の人々が「タンク山」と呼んでいた竜の山の頂上近くに誘い出し、淳君の首を絞めて殺害しました。「タンク山」にはケーブルテレビの施設があり、酒鬼薔薇聖斗はこの施設の床下に淳君の遺体を隠して帰宅しました。

翌日の25日に「タンク山」に戻った酒鬼薔薇聖斗は淳君の遺体を切断し、頭部を袋に入れて隠しました。26日にはこれを自宅に持ち帰り、自宅の浴室で洗った後に天井裏に隠します。27日の夜中に自宅を抜け出し、友が丘中学校の正門に淳君の遺体の頭部を置き、その口に「挑戦状」をくわえさせます。そこに書かれていた名前が「酒鬼薔薇聖斗」でした。

5月27日の早朝に、友が丘中学校の職員が淳君の頭部を発見し、警察に通報しました。遺体の身元を確認したのは、淳君の父親の土師守さんでした。淳君の母親は、変わり果てた息子の姿を直視できなかったそうです。

当時のメディアでは事件の犯人を「事件の犯人が30代前後の男性」と推測していました。酒鬼薔薇聖斗は捜査のかく乱を目的に、6月3日に神戸新聞社に「犯行声明」を送りつけます。友が丘中学校に置かれていた「挑戦状」が同封されていました。「犯行声明」には「1週間以内に3つの野菜を壊します」という次の犯行をほのめかす文章が書かれていました。

神戸新聞社から「犯行声明」を受け取った警察は、友が丘中学校から生徒の作文を借り、筆跡鑑定を行いました。6月10日の時点で、警察は犯人が友が丘中学校に通う少年であると突き止めており、密かに彼の動きを追っていました。6月28日に警察は少年に任意同行を求めます。

警察の取り調べに応じた少年は2月と3月の通り魔事件については犯行を認めました。5月の淳君殺害についても、警察が筆跡鑑定中の「犯行声明」のコピーを見せたことにより自供して逮捕されました。凶悪で異常な事件を起こした酒鬼薔薇聖斗の正体が14歳の少年であったことは、当時の社会で衝撃とともに報道されました。

精神鑑定の後に医療少年院へ

1997年当時の少年法では、犯罪を犯した場合に刑事裁判の対象となるのは16歳以上の未成年と定められていました。そのため、犯行当時14歳だった酒鬼薔薇聖斗は、3人に怪我を追わせた上に2人を殺害し、遺体を切断するという異常で凶悪な事件を起こしたにもかかわらず、刑事裁判を受けることなく、家庭裁判所で少年審判を受けました。

家庭裁判所では酒鬼薔薇聖斗の精神鑑定が行われました。その結果、彼の犯行は知的障害や精神障害によるものではなく、年齢相応の責任能力と判断能力があると認められました。同時に性衝動と暴力衝動が結びついた「性的サディズム」や、自己肯定心と共感性の低さが指摘されました。

精神鑑定では、更生の過程で酒鬼薔薇聖斗に良心が芽生えた結果、罪の意識によって重度の精神疾患に陥る可能性も指摘されました。審判の結果、酒鬼薔薇聖斗には保護処分が下され、1997年8月20日に、彼の身柄は東京都府中市にある関東医療少年院に送られました。

酒鬼薔薇聖斗が異常な事件を起こしたのは、厳しいしつけによって愛情を十分に感じていなかったことが原因と考えられたため、医療少年院では精神科医を両親に見立てた「育て直し」が行われました。

家庭に問題があるとされた酒鬼薔薇聖斗

母親のしつけに問題があるとされた酒鬼薔薇聖斗

酒鬼薔薇聖斗の処分を決定した神戸の家庭裁判所の文書には「少年の両親、特に母親との関係改善も重要である」と記載されていました。精神鑑定でも、酒鬼薔薇聖斗が弟に暴力を振るう一方で親に罰を受けるという「虐待をする者と虐待をされる者」として幼少期を過ごしたことが、彼の攻撃的な性格や犯罪につながったという結果がでており、酒鬼薔薇聖斗は両親、とくに母親との関係に問題があると見なされました。

酒鬼薔薇聖斗の家族構成と生い立ち

酒鬼薔薇聖斗は1982年に神戸市で誕生します。父親は九州の離島出身で、兵庫県に本社のある大手企業に技師として勤めていました。当時としては珍しくありませんが、母親は専業主婦です。酒鬼薔薇聖斗には年子の弟と3歳年下の弟がおり、近所に暮らす祖母(母親の母親)が酒鬼薔薇聖斗の家を訪れ、育児を手伝うこともありました。

長男であった酒鬼薔薇聖斗には弟たちの手本になって欲しいという思いもあり、母親は彼を厳しくしつけました。人前で尻を叩いたこともあったようです。厳しすぎるしつけに、祖母が母親をたしなめた事もありました。厳しいしつけの影響か、酒鬼薔薇聖斗は両親に甘えない子供に育ちました。

酒鬼薔薇聖斗の父親は口数が少なく短気な性格で、頭ごなしに息子を叱ることもあったそうです。息子たちに暴力をふるうことはなかったものの、殴るそぶりは見せていました。兄弟喧嘩は厳しく叱りましたが、その矛先はほとんど長男だったそうです。また、酒鬼薔薇聖斗があまり泣かない子供だったので、父親は腹立たしく感じていたといいます。

酒鬼薔薇聖斗は神戸市須磨区にある祖母の家に引っ越した後、神戸市立多井畑小学校に入学します。小学校3年生の時に、酒鬼薔薇聖斗は「母親が見えなくなった」などと訳の分からない事を言い、大阪市内の病院で「母親の叱り過ぎ(過干渉)による軽いノイローゼ」と診断されます。これを機に、酒鬼薔薇聖斗の両親はしつけの方針を改め、母親は体罰を止めたそうです。

両親、とくに母親の厳しいしつけについて、酒鬼薔薇聖斗は悪いことをして親に怒られるのは当然で、兄弟喧嘩で自分だけが叱られるのも長男だから仕方がないと逮捕後に捜査関係者に話しています。それと同時に「反省していなくても、泣けば大人は叱るのを止める」とも考えていたようです。

酒鬼薔薇聖斗が小学校5年生に進級したばかりの1993年4月に、彼の祖母が死亡しました。祖母の死をきっかけに、酒鬼薔薇聖斗は死について考えるようになり、このころからカエルやナメクジの解剖を始めたと言われています。

小学校の担任が見た酒鬼薔薇聖斗と母親の関係

幼稚園での酒鬼薔薇聖斗は、注意力散漫な子供だったそうです。その性格は小学校に進級しても変わらず、忘れ物が多かったことを彼の担任は話しています。1年生の時には、制服で参加する音楽会に体操服を着ていったことがあるほか、原稿用紙に書くように指定された作文をレポート用紙に書くなどの勘違いも多かったそうです。

小学校の担任が忘れ物について注意すると、酒鬼薔薇聖斗は母親が怖いから黙っていて欲しいと必死に頼んだそうです。また、教師が近づくと、体を強張らせて身構えることがたびたびあったそうです。小学3年生の時に母親の事を「百たたき」という必殺技を持つ「ま界の大ま王」(原文ママ)と作文で書いています。

おかしい母親のおかしい育児

事件の数年後、酒鬼薔薇聖斗の母親は、しつけとして人前で尻を叩いていただけではなく、生後半年から息子に体罰を行っていたことを告白しています。この告白が事実であるならば、酒鬼薔薇聖斗の母親は、しつけを超えた異常な育児を行っていたことになります。赤ん坊に暴力をふるったところで、大人の言う事を聞けるはずがありません。

酒鬼薔薇聖斗の両親は子供のしつけにあたり、「弱いものいじめをしてはいけない」と教えていたそうです。しかし、家庭裁判所が虐待という言葉を用いたように、酒鬼薔薇聖斗は母親の体罰という「弱いものいじめ」を受けていました。そのような環境では、両親の言葉が響くはずもありません。酒鬼薔薇聖斗が危害を加えたのは、年下の児童や女子生徒、小動物などの自分よりも「弱いもの」ばかりでした。

酒鬼薔薇聖斗の祖母の家では、サスケという犬を飼っていました。この犬は産まれてすぐに、ペットショップに売りに出されたそうです。酒鬼薔薇聖斗が小学3年生の時にこの犬について書いた「お母さんなしで生きてきた犬」という作文が学級通信に載せられました。

ぼくもお母さんがいなかったらな。いやだけどやっぱりぼくのお母さんみたいのがサスケのおかあさんだったらわからないけど。やっぱりかわいそうだな。

サスケの母犬に自分の母親を重ねた作文の最後の部分を、当時の担任は学級通信には載せませんでした。これらの作文や酒鬼薔薇聖斗に関わった教師への調査から、精神鑑定や少年審判で酒鬼薔薇聖斗と母親の関係が問題視されたのは当然かもしれません。

事件前から酒鬼薔薇聖斗の言動は異常だった

おかしい子供から言動に問題のある子供へ

朝日新聞大阪社会部の記者が警察や学校関係者に行った取材によれば、酒鬼薔薇聖斗は大人しくてひょうきんな面がある一方で、問題行動を起こす生徒でした。1998年に出版された「暗い森・神戸連続殺傷事件」には、少年の生い立ちや事件の経過が記されており、巻末に資料として、神戸の家庭裁判所が酒鬼薔薇聖斗に下した決定の要旨や精神鑑定の結果概要などが掲載されています。

忘れ物が多いだけでなく、酒鬼薔薇聖斗は授業中のお喋りが多い小学生でした。成績も悪かったそうです。6年生になると問題行動は悪化し、同級生たちとグループを作り、火遊びや万引きなどを行っていました。同級生をエアガンで撃とうとして、校長室に呼び出されたこともあったそうです。

小学校5年生の時、酒鬼薔薇聖斗は友人と公園で遊んでいる時に、子猫を蹴るという事件を起こしています。彼の行動はエスカレートし、小学校6年生の時についに猫を殺害します。切り取った猫の舌をガラス瓶に入れて持ち歩き、友人に見せたこともあったそうです。

酒鬼薔薇聖斗は学校の課題で、赤い粘土の塊にカッターナイフの刃が突き刺さった物を作ります。彼が赤い塊は脳だと答えたため、担任が家庭訪問を行いました。母親に作品の意図を聞かれた酒鬼薔薇聖斗は「友人をいじめた相手への威嚇」と答えます。酒鬼薔薇聖斗はカッターナイフを使った作品を他にも作っていましたが、母親が彼の異常性に気づくことはありませんでした。

酒鬼薔薇聖斗は土師淳君に暴力を振るっていた

酒鬼薔薇聖斗が小学校6年生の時、彼の下の弟は小学3年生で、土師淳君の同級生でした。酒鬼薔薇聖斗は土師淳君に繰り返し暴力を振るっていましたが、淳君は自分が受けた暴力を言葉にするのが苦手で、先生への説明が出来ず、暴力行為の発覚が遅れました。

土師淳君への暴力を担任に叱られた時に酒鬼薔薇聖斗は「向こう(淳君)が先にちょっかいを出した」と主張しました。淳君の母親もこの言い分を信じ、担任に連れられて自宅に謝罪に訪れた酒鬼薔薇聖斗を許したそうです。帰り道に「言い分を信じてもらえてよかった」と安堵すると同時に、酒鬼薔薇聖斗は「このままでは何をするかわからない」と呟いたそうです。

酒鬼薔薇聖斗は「おかしい子供」として教職員にマークされていた

1995年3月に酒鬼薔薇聖斗は小学校を卒業し、4月に友が丘中学校に入学します。小学校と中学校の教師たちによる連絡会で、酒鬼薔薇聖斗は言動に問題のある子供として報告されました。中学校入学後も、酒鬼薔薇聖斗の問題行動は止まらず、同級生に暴力をふるったり、刃物やライターの万引きを行ったりしていました。

酒鬼薔薇聖斗が中学校入学してから、彼の母親は息子との関係が難しくなったと感じたそうです。中学校が児童相談所でのカウンセリングを勧めたこともあり、酒鬼薔薇聖斗は1996年6月に専門医のもとで検査を受けます。その結果、「ADHD(注意欠陥・多動性障害)」の疑いがあると診断されましたが、母親はこの事実を中学校には報告しませんでした。

厳しいしつけを行う一方で、酒鬼薔薇聖斗の母親は、息子の部屋から斧やナイフなどの刃物が見つかっても「友人から預かった」という酒鬼薔薇聖斗の言い分を信じこんでおり、危機感を持っていませんでした。また、自宅の床下から猫の死体が見つかっても、息子を疑うことはありませんでした。

「神戸連続児童殺傷事件」に前後する酒鬼薔薇聖斗の異常な言動

1997年2月10日に通り魔事件を起こした後、酒鬼薔薇聖斗は同級生に自分の犯行であったと打ち明けています。同級生は信じませんでしたが、1997年5月13日に酒鬼薔薇聖斗は彼を公園に呼びつけ「3月の事件は80%自分がやった」と告白します。その後、腕時計を巻きつけた拳で同級生を殴りつけて怪我をさせました。

同級生の両親は被害届の提出を検討しましたが、警察が非協力的だったこともあり被害届は出されず、同級生は県外の中学校に転校します。翌日、中学校の教師に事情を聞かれた酒鬼薔薇聖斗は、暴力を認めた上で「(通り魔事件の犯人であるとの)自分の悪口を言いふらした同級生が悪い」と自らの非を認めませんでした。

中学校には酒鬼薔薇聖斗の父親が呼び出され、面談が行われました。その後、母親が中学校を訪れ、息子が学校に行きたくないと訴えるため、本人が登校の意欲を見せるまで学校を休ませることを告げます。中学校は再び、児童相談所でカウンセリングを受けるように勧めました。

酒鬼薔薇聖斗の母親のおかしい言動

息子の言動を棚に上げて学校に抗議

中学校入学後の酒鬼薔薇聖斗の問題行動を、両親は知っていました。しかし母親は「息子は気が弱いから、悪い仲間の誘いを断れなかった」と考えていたようです。教師の1人が生徒に酒鬼薔薇聖斗との付き合いを控えるように忠告した事を知った酒鬼薔薇聖斗は「先生が僕をおかしいと思っている」と母親に訴えます。母親は息子の言動を棚に上げて、教師に謝罪を求めたそうです。

人に危害を加えた理由を問われた時に、酒鬼薔薇聖斗は相手側に原因があると主張していました。同級生の運動靴を隠した挙句、燃やした時も「向こうが悪口を言っていた」と訴えます。酒鬼薔薇聖斗の母親はこれを信じ、同級生の母親に「女の子は口が立つから」と言い放ったそうです。

検討違いな指摘で叱る

酒鬼薔薇聖斗の家で飼っていた犬のサスケは、1992年12月に老衰で死亡しています。サスケは屋外で飼われていたたけ、野良猫が餌を奪いに来ていました。酒鬼薔薇聖斗は石を投げ、野良猫を追い払っています。庭を汚す猫を嫌っていたのか、酒鬼薔薇聖斗の両親が息子のこの行動を止めることはありませんでした。

サスケと祖母の死後、酒鬼薔薇聖斗の猫虐待は殺害にエスカレートします。彼が自室の窓から野良猫に向かって石を投げつける姿は、近隣住民に目撃されていました。酒鬼薔薇聖斗の投げた石が、斜め向かいの家の雨樋に入ります。酒鬼薔薇聖斗の母親は、息子の行動に気づかず、その家の住人を自宅に上げて詰まった雨樋についての忠告を行っていました。

児童相談所との約束を守らない

同級生への暴力を機に、1997年5月15日から酒鬼薔薇聖斗は中学校に登校しなくなりました。翌日の5月16日に、神戸市内の児童相談所で最初の相談が行われましたが、相談所の職員と中学校が「1回目は母親だけ来て欲しい」と指示したにもかかわらず、母親は息子を連れて児童相談所を訪れたそうです。6月にも水曜日の来所を約束していながら月曜日に訪問したこともありました。

酒鬼薔薇聖斗の母親は息子の暴力を謝らなかった

小学校3年生の土師淳君に暴力をふるい、酒鬼薔薇聖斗が担任とともに謝罪に訪れた後、淳君の母親は彼の家に電話を掛けました。酒鬼薔薇聖斗の両親に、息子の行動を伝わっているかを確かめるためです。電話に出た酒鬼薔薇聖斗の母親からは謝罪は無かったそうです。

行方不明の子供の家へ行きゲームを始めた

1997年5月24日に「祖父の家に行く」と言ったきり、土師淳君は行方不明になりました。彼の両親は警察に捜索願を出し、翌日からは捜索の人数が増えました。淳君の両親は心当たりの場所を捜そうとしましたが、彼が見つかって連絡があった場合のことを考えれば、自宅に人が残る必要がありました。この時に土師家の留守番と電話番を買ってでたのが、酒鬼薔薇聖斗の母親でした。

酒鬼薔薇聖斗の家では亀を飼っており、淳君はよくそれを見に行っていましたが、酒鬼薔薇聖斗の両親と淳君の両親は単なる顔見知りで、親しいわけではありませんでした。酒鬼薔薇聖斗の母親は当時流行していたゲーム「たまごっち」を持って土師家に入り、ゲームをしながら息子の自慢をしていたそうです。たまりかねた淳君の親戚により、酒鬼薔薇聖斗の母親は土師家から追い出されました。

通夜での異常な言動

友が丘中学校で見つかった淳君の頭部に続き、彼の遺体の胴体部分も「タンク山」で発見されました。神戸大学で司法解剖が行われた後、淳君の遺体は葬儀会場に運ばれました。淳君の自宅の周辺は、大勢のマスコミに囲まれていたために、遺体を帰宅させることができなかったのです。1997年5月29日には淳君の通夜が行われ、酒鬼薔薇聖斗の母親も参列しました。

淳君の遺体は酷い状態だったため、淳君の母親はそれを直視することができませんでした。そんな彼女に酒鬼薔薇聖斗の母親は「難儀やな(困ったな)。顔ぐらい見たりいな」と声を掛けたそうです。淳君の母親の気持ちを考えれば、考えられない発言です。

酒鬼薔薇聖斗の母親は土師家に探りを入れていた

土師淳君の自宅周辺はマスコミに囲まれており、守さんの仕事や淳君の兄の登校はもちろん、買い物もままならない状態でした。警察官や淳君の近所の人の他に、酒鬼薔薇聖斗の母親が買い出しを行ったこともあるそうです。彼女は土師家にいる警察の人数などを聞いていたようです。

土師淳君の父親である守さんは著書「淳」の中で、酒鬼薔薇聖斗の母親の言動について触れています。また、母親のおかしい言動は、息子の犯行に気づいていたからではないのかとも考えましたが、少年法の壁もあり、真実を明らかにすることはできませんでした。

酒鬼薔薇聖斗が逮捕された後の両親の言動

弁護士に促されるまで遺族への謝罪をしなかった両親

酒鬼薔薇聖斗が逮捕された後、警察は彼の家を家宅捜索しました。部屋の机には3月の通り魔事件について記した「犯行メモ」が置かれていたそうです。酒鬼薔薇聖斗には多くの弁護士が付きましたが、弁護士の指示を受けるまで、酒鬼薔薇聖斗の両親は被害者や遺族への謝罪を行いませんでした。

土師淳君の遺族に謝罪するにあたり、酒鬼薔薇聖斗の弁護士は、知人に土師家の人々を紹介して欲しいと求めました。この人は土師家の近所に住んでいるだけで、土師家の人々との面識はなかったそうです。後に弁護士は町内会の役員を通じて、土師家の人々に謝罪したいという旨を伝えたそうです。この時期に酒鬼薔薇聖斗の母親は「土師さんの家にはまだ警察がいるのか」などと知人に探りを入れていました。

1997年8月16日、土師家に酒鬼薔薇聖斗の両親から謝罪の手紙が届きました。8月19日には、3月の通り魔事件の被害者宅にも、手紙が届いています。しかし、封筒に書かれた宛名と被害者の名前が違うだけで、山下家と土師家に届いた手紙の文章はまったく同じでした。また、3月の事件で重傷を負った女児の家に送られた謝罪文でも、似たような文章を使いまわしています。

酒鬼薔薇聖斗の逮捕の約1ヶ月後、彼の父親は警察官から3月の通り魔事件の被害者の名前を尋ねられましたが、答えられませんでした。1997年9月18日に、弁護士立会いの元で酒鬼薔薇聖斗の両親は山下彩花さんの両親に謝罪の言葉を述べましたが、酒鬼薔薇聖斗の母親はサングラスをかけたまま土下座と謝罪を行い、山下彩花さんの両親に指摘されるまでサングラスを外さなかったそうです。

酒鬼薔薇聖斗の両親は遺族に断りなく手記を出版した

酒鬼薔薇聖斗が医療少年院に送られた後、土師淳君の遺族と山下彩花さんの遺族は、それぞれ酒鬼薔薇聖斗と両親を相手に民事訴訟を起こしました。1999年に山下彩花さんの遺族とは示談が成立し、酒鬼薔薇聖斗の両親が約8000万の示談金を支払うことになりました。土師淳君の遺族との裁判では、原告(土師淳君の遺族)の訴え通りに、1億4000万円の賠償を命じる判決が下されました。

土師淳君の遺族との裁判が終わった翌月の1999年4月に、酒鬼薔薇聖斗の両親は「少年Aこの子を産んで……」という手記を出版しました。この手記は「なぜ自分の子供が殺されねばならなかったのか」という遺族の疑問に答えるために出版されたという触れこみでしたが、出版前に酒鬼薔薇聖斗の両親から遺族への説明はありませんでした。

酒鬼薔薇聖斗が起こした異常な事件は、両親の厳しいしつけが原因であると世間では考えられていました。酒鬼薔薇聖斗の両親の手記だけを見れば、両親のしつけは決して厳しすぎることはなく、どこの家庭でもありえる物で、ごく一般的な家庭に子供が生まれた子供の異常な行動により、両親や多くの人々が苦しんだように読み取れます。

しかし、この手記には遺族が求めた真実や、酒鬼薔薇聖斗とその両親にとって都合の悪いと思われる事柄(1995年にADHDの疑いと診断されたことなど)は記載されていません。「少年Aこの子を産んで……」は2001年に文庫化されており、現在でも手に入りやすい書籍です。

酒鬼薔薇聖斗の両親は、手記の出版で約7000万円もの手記の印税を手にしたと言われています。印税は被害者や遺族への償いに宛てると後書きには記載されていましたが、土師守さんはそのような形で得た金を受け取ることに拒否感を示しています。印税の使い道については分かりませんが、酒鬼薔薇聖斗と両親は未だに遺族への賠償金の支払いを終えていないのは事実です。

過去の犯罪を金儲けに利用した酒鬼薔薇聖斗

2005年1月に酒鬼薔薇聖斗は医療少年院を退所しました。支援者と養子縁組を行って姓名を改め、仕事と住所を転々としていましたが、2015年に「元少年A」名義で「絶歌・神戸連続児童殺傷事件」という手記を出版します。この行動に遺族だけではなく、著名人からも異論が出ました。

酒鬼薔薇聖斗は「存在の耐えられない透明さ」という公式ホームページを開設し、手記の宣伝を行います。また、月額800円のメールマガジン(メルマガ)の配信も行っていました。運営元によってメルマガは凍結され、公式ホームページも閉鎖されました。過去の異常な犯罪を特別な物と美化した上に金儲けに使った酒鬼薔薇聖斗の姿勢について「医療少年院での育て直しは無意味だった」「更生していない」と語る専門家もいます。

酒鬼薔薇聖斗の両親は、「絶歌」の出版後にコメントを出し、遺族への謝罪とともに、自業自得ではあるが息子の生活や仕事に支障が出るので報道は控えて欲しいと要求しました。遺族への感情よりも自分たちの都合を優先する姿勢に、ネット上では非難の声が上がりました。

酒鬼薔薇聖斗が「おかしい」のは遺伝か環境か

酒鬼薔薇聖斗の両親は、息子が問題を起こした相手や被害者の遺族に対して誠意のない言動を続けてきました。「この親にしてこの子あり」という言葉が当てはまるのかもしれません。また、土師淳君の事件に前後して酒鬼薔薇聖斗の母親が示した言動は場の空気が読めず、人の気持ちが分からないと言われても仕方がない物で、これらを積み重ねれば「異常な母親」と評価されてもやむを得ません。

酒鬼薔薇聖斗は1995年に発達障害の一種である「ADHDの疑い」を診断されています。彼は忘れ物が多く、成績不振、集中力の欠如などの「ADHD」にありがちな症状が見られました。発達障害の原因には遺伝などの様々な説がありますが、まだ正確な原因は分かっていませんし、発達障害の人間が必ずしも凶悪な犯罪を犯すわけではありません。

しかし、発達障害の子供が厳しいしつけを受け、両親や教師から叱責され続けた結果、自己肯定心や自信を失って抑うつ状態に陥ったり、行為障害と呼ばれる反社会的な行動、いわゆる犯罪を起こすDBDマーチと呼ばれる二時障害に陥った例が報告されています。酒鬼薔薇聖斗の犯罪は「行為障害」であったことは事実であり、医療少年院入所中の1999年には「アスペルガー障害」と診断されています。

「「アスペルガー障害」や「広汎性発達障害」「自閉症」などの発達障害は、現在まとめて「自閉症スペクトラム障害」と呼ばれています。凶悪犯罪と発達障害はしばしば関連付けて報道されますが、発達障害だけが犯罪の原因になるわけではありません。

少年審判の際に酒鬼薔薇聖斗を弁護した野口善国さんは、「様々な、しかし決して珍しくはないマイナス要因が複雑に絡み合い、少年の感情と重なった結果、事件が起きたのではないか」と分析しています。結局のところ、酒鬼薔薇聖斗が起こした異常な犯罪を引き起こした原因について、しつけや家庭環境、母親との関係が原因であったとは断定はできないのです。

酒鬼薔薇聖斗の両親の現在

酒鬼薔薇聖斗は結婚しており、子供がいると噂されていますが、真相も居住地も不明です。また、彼の両親は一度離婚して、名字を変えたと言われています。手記の印税で四国またはH県(兵庫県?)に豪邸を買ったとも噂されていますが、詳細は分かりません。

続けて読みたい酒鬼薔薇聖斗の現在についてはこちら

酒鬼薔薇聖斗の現在や本名・結婚や事件まとめ!嫁や子供の情報や顔写真も | Luupy[ルーピー]

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