村田修一に引退報道の真相は?NPBからのオファーもなく現役引退?

多くの野球ファンに親しまれた村田修一。横浜や巨人で4番打者を務め、2000本安打まであと少しだったのですが引退報道が続いています。BC栃木に移籍してからも引退報道が続いていた村田修一ですが、その引退報道の真相についてまとめました。

目次

  1. 「男・村田」こと村田修一の引退報道の真相とは
  2. 村田修一のプロフィール
  3. プロ野球選手として横浜ベイスターズに入団
  4. 村田修一はその後に読売ジャイアンツに移籍
  5. 引退報道の中でBC栃木からNPB復帰を目指した
  6. 近づく期限と過熱する引退報道

「男・村田」こと村田修一の引退報道の真相とは

「男・村田」の愛称でも親しまれ、多くのプロ野球ファンから愛された村田修一が引退を決断することになりそうです。以前から続いていた引退報道ですが、支配下登録期限となる7月31日を過ぎたことで、プロ野球界から去ることになりそうです。

2000本安打まであと少しということもあり、NPBへの復帰が期待されていた中で、なぜ村田修一はNPBに復帰することが出来なかったのでしょう。滞空時間の長いホームランアーチストだった村田修一は横浜、巨人で4番打者も務めていました。

独立リーグであるBC栃木に移籍してまでNPBへの復帰にこだわった村田修一。その村田修一のBC栃木までの経歴と引退報道から、引退の決意までをまとめました。

村田修一のプロフィール

村田修一は1980年12月28日生まれの37歳です。福岡県糟屋郡篠栗町出身でプロ野球選手として活動していました。愛称は「男・村田」であり、横浜ベイスターズと読売ジャイアンツ、そして栃木ゴールデンブレーブスで活躍した名選手です。

小学校時代の村田修一は軟式野球チーム「勢門ベアーズ」に所属しており、中学時代は粕屋町のボーイズリーグ「粕屋フェニックス」に所属していました。高校は東福岡高校に進学しており、プロに入ってからは内野手として活躍していますが、当時は投手としてプレイしていました。

そのため、村田修一は投手として高校三年制のときに春夏の甲子園に出場しています。また、春のセンバツでは横浜高校の怪物・松坂大輔と投げあっており、三回戦敗退となっています。

高校時代の村田修一は投手で松坂大輔と投げあった

また、夏の甲子園では後に横浜ベイスターズとオリックスバファローズに入団する古木克明率いる豊田大谷高校に敗れてしまっています。当時からそのパワーには定評があり、高校通算30本塁打という記録を残しています。

また、第3回AAAアジア野球選手権大会では中村順司率いる日本代表にも選ばれており、投手として最優秀防御率(0.00)を記録し優勝にも貢献しています。その後は、すぐにプロには入らず日本大学経済学部に進学しており、硬式野球部に入部しています。

その中で村田修一は、投手では松坂大輔に勝てないと感じたことから野手に転向しています。村田修一の同期にはヤクルトスワローズに入団した館山昌平を始め、堤内健や大野隆治がいます。また、大野隆治とは高校・大学ともに同僚であり、高校時代はバッテリーを組んだ仲でした。

大学三年生のといには、現在の千葉ロッテマリーンズの監督である井口資仁と並ぶ1シーズン8本塁打も記録し、通算20本塁打という記録を残しています。そして、2002年のドラフト会議で横浜ベイスターズに自由獲得枠で入団しています。

プロ野球選手として横浜ベイスターズに入団

2003年に横浜ベイスターズに入団した村田修一は、高校を卒業してそのままプロ入りしていた古木克明が三塁を守っていたため、二塁手としての挑戦からスタートしました。そのため、6月までは古木克明が三塁で村田修一が二塁を守るという形でシーズンが進みました。

その後、古木克明が外野に回った関係で、後半の試合からは村田修一が三塁のレギュラーに定着しました。7月に打撃不振から二軍落ちを経験したものの、9月に再昇格してからは月間10本塁打の新人最多記録を残しています。

104試合で25本塁打という素晴らしい活躍をしていた村田修一ですが、9月28日のヤクルトスワローズ戦で死球を受けて骨折し、そのままシーズンを終えています。2004年からは5番・三塁手の開幕スタメンを掴んだものの、種田仁と内川聖一との併用が続きました。

2004年には結婚も

村田修一は2004年12月8日に結婚もしています。結果的には怪我で成績アップとは行かず、2005年のシーズンは不振が続いて、交流戦で指名打者制となった際には打順が9番にもなっています。そのため、当時の監督だった牛島和彦からは9番の次の打順は無いという形で、かなり叱責されていたようです。

そんな村田修一は牛島和彦に活を入れられた試合で決勝本塁打を打っており、このころから村田修一は「男・村田」という愛称で呼ばれるようになったそうです。以降も、プロ野球選手として様々なエピソードを残しており、村田修一の本塁打に関しては記録だけでなく記憶に残るものが多いのです。

2006年シーズンでは両リーグ最多となる153三振という不名誉な記録を残しているものの、打率.266、34本塁打、114打点という素晴らしい記録を残しています。2007年シーズンでは4番・三塁手で全試合にスタメン出場しており、2年連続の30本塁打・100打点を記録しています。

記録にこだわった村田修一に賛否両論の声も

村田修一は2007年に36本塁打で初のタイトルとなる本塁打王に輝いています。実はこの本塁打王の記録は4人が35本に並んでいた中で、最後に村田修一が本塁打を打ったことで達成したタイトルでした。

しかし、この最後の一本は、10月6日に行われた広島東洋カープ戦であり、引退試合として登板した佐々岡真司から打った1本でした。しかし、プロ野球の引退試合では暗黙の了解のようなものがあり、引退する選手の顔を立てるような形にしてあげることが多いようです。

例えばバッターの引退試合ではピッチャーが打ちやすい珠を投げてあげたり、投手の場合はバッターが三振をしてあげるというものがあります。そのため、村田修一が佐々岡真司の引退試合で本人から本塁打を打つというのはタブーだったわけです。

しかし、実際のところは広島東洋カープサイドから、試合前に佐々岡真司は真剣勝負をするため、村田修一には本気で打席に入って欲しいということを伝えていたそうです。そのため、村田修一はボールに近い珠を強振して本塁打にしているのです。

この本塁打で本塁打王に輝いており、村田修一からすれば記録がかかっている状況で一打席も無駄にできないという理由からのホームランでした。とはいえ、こういったエピソードがその後も村田修一にはつきまとっており賛否両論を生むことになります。

村田修一はその後に読売ジャイアンツに移籍

村田修一はその後も横浜ベイスターズで活躍しており、チームは低迷するものの自らの記録は高水準をキープし続けていました。そして、2010年にまたもや物議を醸す出来事が起きています。

それは2010年9月30日に阪神タイガースの矢野燿大の引退試合でした。このとき矢野燿大はスタメンで出場しておらず、9回表の最後の打者で守備交代で出場する流れでした。ところが9回表に抑えの藤川球児が登板し、ランナーをためてしまい村田修一の打席を迎えました。

ファンの中には佐々岡真司の引退試合を思い出して警戒しているものもいたようで、案の定、村田修一がバットを降ってホームランにしたことで横浜ベイスターズが逆転しています。そのため、矢野燿大はそのまま交代して出場することはなく、チームも逆転出来ずに試合が終了してしまったのです。

もちろんランナーをためて、棒球のようなボールを投げた投手が悪いわけで、引退試合でも打ってはいけないわけではないのですが、佐々岡真司のときと合わせてセットで賛否両論な打席としてあがることの多いシーンとなってしまいました。

読売ジャイアンツにFA移籍してからの村田修一

2011年に主将に就任し全試合4番・三塁手として出場しましたが、前年保留したFA権を行使して読売ジャイアンツに移籍することが発表されました。横浜ベイスターズはチームとして低迷している時期が長く、勝ちたいという気持ちが強かった村田修一は優勝争いができる読売ジャイアンツへの移籍を決意することになったのです。

巨人軍の一員となった村田修一は、2年総額5億円という契約を行っています。巨人への移籍は優勝したいという気持ちからの決断だったわけですが、成績は不振に陥っており打率.252、12本塁打、58打点と期待を裏切る結果となっています。

翌シーズンで交流戦で8年ぶりとなる9番打者に起用されるという屈辱を経験し、大きく打撃フォームを改造することになります。そして、その打撃フォームの改造が功を奏したことで復活し、自身最多の164安打を記録し25本塁打で打率.316を記録しています。

巨人に移籍して選手会長にも

村田修一は2014年には選手会長に起用されており、これは異例のことでした。というのも、巨人は初代選手会長の長嶋茂雄以来、生え抜きの選手以外が選手会長を務めたことがなかったからです。

しかし、監督の原辰徳は投手野手関係なく、後輩を食事に連れて行くことなどからチームメイトの信頼も厚く、リーダーシップを発揮している村田修一を選手会長に抜擢することを決めたわけです。また、契約kも3年で総額10億円と新しい契約を結んでのシーズンスタートとなっており、名実ともに巨人軍の4番として柱になったわけです。

一時期は4番として本塁打にこだわりすぎたことから調子を落とし、本塁打を捨てて打率を上げることを目標にしたシーズンもありました。それでも、打率を3割に乗せた上で25本塁打を超える記録を残すなど、打者としても守備の面でもトップクラスの選手として活躍していました。

若返り方針の中で引退報道が

しかし、2017年ごろからスタメンを外れることが多くなり、特に新加入した外国人選手のケーシー・マギーとの併用が大きなポイントになりました。

また、巨人がチーム全体の若返りを方針に打ち出したこともあり、シーズンオフの10月13日に戦力外通告を受けることになります。

引退報道の中でBC栃木からNPB復帰を目指した

30代後半となりベテランと呼ばれる年齢になった村田修一。しかし、決して選手として引退しなければならないほど衰えていたわけではありませんでした。そのため、チームが若手を育成するという理由で無ければ、村田修一が戦力外通告とはならなかった可能性が高いです。

また、村田修一にとっては理不尽な話で「村田がいると使いたくなってしまう」という気持ちがあったようで、それでは結局若手が育たなくなってしまうというジレンマがあったようです。

そのことで戦力外となった村田修一は、まずNPBの別のチームからのオファーを待つことになりました。しかし、どこも同様の理由から村田修一を獲得しようとする球団が現れなかったわけです。そこで、村田修一に声をかけてきたのがBC栃木という独立リーグに所属するチームでした。

村田修一は独立リーグ入団に条件を提示

プロの第一線で活躍してきて、まだまだそのレベルを保っている選手からすれば、独立リーグでプレイするというのはなかなか複雑なものだったようです。しかし、村田修一はプレーできる場所を確保するためにBC栃木からのオファーを受けたようです。

BC栃木に入団するにあたって村田修一はいくつかの条件を提示したと言われているようです。まず、一番のポイントはNPBの球団からオファーがあれば退団することを認めるという条件でした。

また、独立リーグでプレイするのは長くてもNPBの支配下登録期限である7月末までというものでした。つまり、この時点で7月末までにオファーがこなければ村田修一は引退すると決断していたわけです。このことが、期限ギリギリまで引退報道が続く理由にもなりました。

他にも自分の家族が理解を示すチームであることや、そのチームの地元に地域貢献できるようなチームというものを探したようですね。その中から選んだBC栃木は、村田修一の妻の実家がある栃木県のチームだったわけです。また、元ヤクルトスワローズの飯原誉士もコーチ兼任で入団しているというのもポイントだったかもしれません。

近づく期限と過熱する引退報道

2018年3月5日に栃木ゴールデンブレーブスに入団した村田修一。結果的に言えば32試合に出場し本塁打を6本打つなど、さすがと言える記録を残しています。年俸はリーグ規定などもあり、最大でも250万円ほどと言われる額だったようです。

NPBには支配下登録期限というものがあり、期限を超えるとそのシーズン中に移籍したり新しい選手を獲得したりすることができなくなります。そのため、この期限が迫るにつれて村田修一の引退報道が過熱していくことになりました。

現役選手やファンを含めてNPB復帰を期待する声があがっていたものの、ついに期限までに村田修一へはオファーが来ることはありませんでした。

引退報道の中でオファーが来なかった理由

プロ野球選手として、横浜と巨人で素晴らしい記録を残した村田修一。また、2000本安打まであと少しという中で、村田修一にオファーが来なかった理由は何だったのでしょうか。

一番の理由はどの球団も若返りが一番の理由だったといえます。花形である三塁手というポジションだけに、できれば生え抜きの選手であったり、もう少し若い選手を使いたいという気持ちがあったと考えられます。

村田修一は1軍最低保証の年俸でも構わないと考えていたようで、ベテランのネックである年俸面の問題はクリアしていた可能性が高いです。しかし、一部からは素行面で横柄な態度を指摘されることもあり、チーム内で派閥を作ったり、全力疾走が見られない場面があるという問題も抱えていたようです。

性格面の問題も指摘されていた

また、巨人時代には4番の重圧もあったのでしょうが、かなり繊細な性格の持ち主だったようで、慢性的な吐き気を催すほどだったようです。試合中にロッカールームでたびたび吐いていることはチームメイトからも暴露されています。

同時に、巨人時代にスタメンにこだわるような発言も多かったようで、巨人での契約最終年では代打起用が多くなったことを明らかに不満げにしていたようです。

いざ自分が追い込まれてから謙虚になってももう遅いという雰囲気が球界にはあったと言われており、ベテランが加入してチームの輪を乱す可能性があったといえるのかもしれません。実際、サヨナラの場面で一人だけベンチに座り込んでいるようなシーンがあるなど、普段の行動が厳しい結末につながったと言われています。

村田修一に限らず、中村紀洋や松中信彦なども同様の理由できれいな引退が出来きなかった選手も実際にいるようです。BC栃木でNPB復帰を目指したわけですが、BC栃木でも度々欠場するなど、反省しているの?という声もあったと言われています。

引退報道を覆すことは出来なかった

BC栃木も当初の予定とは違いシーズン終了までプレーするそうです。残念ながらプロ野球界にも復帰出来なかった村田修一は2000本安打まであと135本だっただけに、その引退は非常に悔やまれるものとなりました。

村田修一は最後に野球は楽しかったということと、やれることはやったという気持ちのようですが、本音がどうなのか気になるところです。

最後はBC栃木でバットを置くことになった村田修一。今後もプロ野球界にコーチなどの形で関わっていくかが注目の部分ですね。その非凡な打撃センスを次の世代に伝える人物として、形は変わってもプロ野球界で活躍してほしいです!

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