俳優の津川雅彦さんが死去!妻朝丘雪路さん死去から4ヶ月・死因を調査!

優しい雰囲気があり、いつも朗らかな印象のある俳優の津川雅彦。そんな津川雅彦が妻の朝丘雪路が亡くなってわずか4ヶ月後に死去したというニュースが入りました。そんな津川雅彦の死去の死因や、妻である朝丘雪路との馴れ初めについて紹介します。

目次

  1. 津川雅彦が朝丘雪路が亡くなって4ヶ月後に死去
  2. 名優の津川雅彦のプロフィール
  3. 津川雅彦の不遇の時代
  4. 津川雅彦と朝丘雪路の結婚と死去
  5. 朝丘雪路の死去で気持ちが途切れたのかも

津川雅彦が朝丘雪路が亡くなって4ヶ月後に死去

名優の津川雅彦が、妻である朝丘雪路を2018年4月に亡くしてわずか4ヶ月後に死去したというニュースが入ってきました。オシドリ夫婦だった津川雅彦と朝丘雪路。まるで、津川雅彦は朝丘雪路の後を追うように死去したと感じる出来事です。

そんな津川雅彦と朝丘雪路の馴れ初め、また津川雅彦の死去の死因について紹介します。朝丘雪路が死去する前から津川雅彦は体調を崩していたようですが、どのような病気を抱えていたのでしょうか。

妻である朝丘雪路との馴れ初めや、その結婚までの道程はかなりの大恋愛だったようです。愛する妻である朝丘雪路の死因や、最後の津川雅彦の生き様についてまとめてみました。

名優の津川雅彦のプロフィール

津川雅彦は1940年1月2日生まれで2018年8月4日に78歳で死去しました。京都府京都市中京区出身で、本名は加藤雅彦です。また、別名義でマキノ雅彦という名前で映画監督を行っていました。俳優や映画監督、また芸能事務所グランパパプロダクションに所属し、代表取締役を務めました。

津川雅彦の妻は朝丘雪路で、一人娘の真由子がいます。また津川雅彦の父親は沢村国太郎、母親はマキノ智子です。そして、兄は同じく俳優の長門裕之で祖父は牧野省三です。

「マキノ家」と呼ばれる芸能一家に生まれた津川雅彦。「日本映画の父」とされる映画監督のマキノ省三を祖とする日本映画・芸能を代表する一家に誕生しています。子役として数本の映画に出演していたものの、本格的に映画に出演したのは16歳になってからでした。

それは1956年の日活映画「狂った果実」で、このときに津川雅彦と同じように本格的な主演デビューとなった石原裕次郎の弟役を探していた、石原慎太郎がひと目で気に入ってキャスティングされたそうです。

芸能一家の血はたしかに流れていた

このとき石原慎太郎は、強引に津川雅彦の家に訪れて、芸名の名付け親にもなっているものの、津川雅彦は新聞記者に憧れて早稲田大学高等学院に在学中でした。

時期的に夏休みだったこともあり、津川雅彦は「夏休みだし、1本ぐらいなら」という軽い気持ちで映画出演を決めたそうです。

ところがこの「狂った果実」が大ヒットしたことにより、津川雅彦もいちやく人気俳優の仲間入りを果たし、日活の看板役者となりました。多くのスターが登場し、日本映画の黎明期となる中で、津川雅彦はその芸能一家の血を脈々と受け継いでいたと言えるかもしれません。

津川雅彦の不遇の時代

人気絶頂だった津川雅彦は1958年に松竹に移籍したものの、ここではなかなかヒット作品に恵まれず、フリーに転身してテレビの世界に活動の場を求めます。しかし、1969年にデヴィ・スカルノとの不倫騒動をきっかけに芸能界を干されるような形となっています。

その中で、津川雅彦は1972年から開始された「必殺シリーズ」の悪役として起用されたことが、再ブレイクのきっかけとなります。このとき、演出を担当した松本明から世間では津川雅彦をみんな嫌っているから、殺される悪役をやればいいという理由で起用されたそうです。

このとき、津川雅彦としてはいままでの美男俳優としてのプライドを捨てての挑戦となり、その中で悪役をこなしながら演技に関することを改めて学ぶ期待になったそうです。自分の生き方は変えずに、一本の筋を通す生き様はこの頃から変わっていなかったわけです。

1982年に「マノン」でブルーリボン賞助演男優賞を受賞し、以降は伊丹十三監督作品の常連となります。しかし、伊丹十三監督の演技指導は非常に厳しいものだったようです。その演技指導を乗り越えた結果、津川雅彦は中年となってからも、好色な中年男性役として本領を発揮していくことになります。

津川雅彦と朝丘雪路の結婚と死去

津川雅彦は1973年に女優の朝丘雪路と結婚しています。朝丘雪路は1935年7月23日生まれで2018年4月27日に82歳で死去しています。東京都市橋区築地生まれで、元宝塚歌劇団月組娘役でした。

朝丘雪路の父は日本画家の伊東深水で日舞の深水家元として、深水美智雪の名前も持ちます。驚くほどのお嬢様として育っており、自らの衣服はすべてメイドさんが着せてくれるような生活を送っていたそうです。そういったお嬢様エピソードは津川雅彦と結婚してからも度々、バラエティ番組で話題になりました。

実は津川雅彦と妻の朝丘雪路は再婚で、朝丘雪路は1967年に青森県八戸市の内科医と結婚し、男児を出産していました。1968年に離婚を発表、正式な離婚成立は1972年となり、子供は夫が引き取っています。

津川雅彦との結婚は、その離婚が正式となった翌年のことで1973年に津川雅彦と結婚し、1974年に真由子を出産しています。映画界で活躍していた津川雅彦と宝塚歌劇団の娘役との結婚だけに、その結婚の道程は簡単なものではなかったようです。

映画界のモテ男が妻にした朝丘雪路

芸能界一のオシドリ夫婦とも言われる津川雅彦と朝丘雪路ですが、津川雅彦は映画スターとしてかなりのモテ男だったようです。噂では、津川雅彦の当時の日記には、様々な女性の名前と一緒に朝丘雪路が一番というような記録もしていたようです。

それを見た朝丘雪路は、その文の中に「顔はともかく」というものを見つけて怒ったというエピソードもあるそうです。朝丘雪路と交際を始めるまでに、デヴィ・スカルノとの問題を起こしていただけに、朝丘雪路との交際はかなりのチャレンジだったといえます。

朝丘雪路と元夫が離婚する前からすでに交際を始めていたという津川雅彦。そんな津川雅彦は自身が経営する絵本・木製おもちゃの店「グランパパ」が経営悪化し、6億5000万円という負債を背負ってしまいました。

そんな津川雅彦を助けるために、朝丘雪路は自宅を売却することを許してくれたそうです。何か困ったことがあればいつも助けてくれたという朝丘雪路。二人の関係は年齢を重ねても変わること無く続いていました。

朝丘雪路の死去で気持ちが途切れたのかも

60歳を越えてからもカジュアルなファッションを好み、若い女性達と合コンを繰り返していた津川雅彦。自らの合コン仲間には奥田瑛二や明石家さんま、高橋克典や宍戸開など、幅広いメンバーを連れて合コンを楽しんでいたそうです。また、趣味はメールで絵文字を使いこなすハイカラな人物でした。

一人娘の真由子のことも溺愛しており、娘にもし恋人が出来ても、その男を許すことは出来ないというほどの溺愛ぶりだったそうです。この根底には過去に娘が誘拐されるという事件が関係しており、豪快な人生の裏には様々なトラブルを抱えていた人物でもありました。

朝丘雪路の死去の死因はアルツハイマー型認知症

2010年ごろから体調を崩した朝丘雪路は2014年に行われた津川雅彦と真由子との家族共演で行われた舞台「花や…蝶や…」への出演を最後に芸能活動を休養しました。そして、2018年5月20日に、同年4月27日に死去していたことが発表されています。

朝丘雪路の死因は「アルツハイマー型認知症」という形で発表されており、珍しい死因となっています。しかし、この死因はアルツハイマー症によって、脳の機能が低下することで、その生命維持機能すらも低下してしまうそうです。

亡くなる直前は自宅で介護をしていたそうです。津川雅彦は自分より先に朝丘雪路が亡くなってくれたということが「プレゼント」と考えていたようです。もし、津川雅彦が先に亡くなってしまえば、残された朝丘雪路にとっては過酷な余生になると考えていたようです。

死去した津川雅彦の生き様は多くの人間に影響を与えた

津川雅彦が公の場に姿を見せたのは、朝丘雪路が亡くなった2018年4月のことで、そのときすでに酸素吸引のチューブをつけており肺炎を患っていたそうです。そして、その4ヶ月後の2018年8月4日に津川雅彦は死去しました。死因は心不全だったそうです。

すでに朝丘雪路が死去した段階で、津川雅彦もかなり体調は危険な状態だったようです。酸素吸入のチューブをして、その体調を心配する記者たちに、この姿で大丈夫というのは嘘になると、自らの死期を悟るような姿を見せていたようです。

認知症の妻を置いては死ねない。オシドリ夫婦と言われた二人は最後まで支え合いながらその最後を迎えたといえそうです。平成の終わりが近づく中で、また一人昭和と平成を彩った名優が旅立つことになりました。最後まで豪快に生きた津川雅彦の生き様を後世に引き継いでいきたいですね。

関連するまとめ

記事へのコメント

気軽にコメントしよう!

※コメントは承認後に公開されます。

アクセスランキング

人気のあるまとめランキング

新着一覧

最近公開されたまとめ