塩沢ときの死因は?若い頃の画像や髪型・名言などをまとめて紹介
塩沢ときは、ユニークな髪型とメガネ、そして大胆な発言でバラエティの人気者となりましたが、若い頃は、多くの映画に出演した美人女優でした。その人生は実はがんとの戦い。塩沢ときの死因は何だったのか、どんな名言を残したのか、画像とともに振り返ります。
塩沢ときのプロフィール

・愛称:「ときさん」「ときちゃん」など
・本名:塩沢登代路(しおざわ とよじ)
・生年月日:1928年4月1日
・現在年齢:2007年5月17日、79歳没
・出身地:東京都牛込区
・血液型:AB型
・身長:?
・体重:?
・活動内容:女優
・所属グループ:なし
・事務所:東宝芸能
・家族構成:生涯独身
塩沢ときの経歴
塩沢ときは、実践女学校卒業。1947年、19歳で東宝ニューフェイス第2期に合格して芸能界入りします。東宝ニューフェイスとは、1946年から1960年代後半にかけて、東宝が新たな俳優を発掘するために開催していたオーディションです。ちなみに、第1期合格者には三船敏郎や久我美子、塩沢ときと同期の第2期合格者には杉葉子などがいます。塩沢ときはその後、亡くなるまで東宝芸能に所属していました。

塩沢ときの映画初出演は『女三四郎』(1950年)でした。その後、東宝を中心に映画女優として活躍します。1958年までは、本名の塩沢登代路でクレジットされていますが(『うれし恥かし看板娘』など)、1959年からは、塩沢ときの名前が見られます。若い頃は清楚な美人女優だったのです。若い頃はメガネはかけていません。

1960年代の出演作品をいくつか拾ってみると、『香港クレージー作戦』(1963年)、『怪獣大戦争』(1965年)、『ザ・タイガース 華やかなる招待』(1968年)などがあります(いずれも東宝作品)。植木等や谷啓らのクレージーキャッツや、沢田研二のいたザ・タイガースなどの人気者と共演していたことが分かります。『怪獣大戦争』はゴジラシリーズの第6作目です。

この作品では塩沢ときは婦人団体の代表役を演じています。やがて娯楽の中心は映画からテレビに移っていきます。塩沢ときもそれに合わせるかのように活躍の場を移していきました。1969年から始まったテレビの『ケンちゃんシリーズ』には、インパクトの強い教育ママ役で何度も出演しています。「んま~、なんてことでしょ!」といういかにも教育ママ的な言葉が決め台詞でした。この頃から、テレビドラマにおける個性的な脇役としての活躍が始まります。

1973年の『へんしん!ポンポコ玉』では、主人公たちの近所に住む口うるさくて詮索好きなおばさん役で登場しています。ちなみに、『へんしん!ポンポコ玉』は、宇宙人からもらったポンポコ玉を使って男の子と女の子が入れ替わるという内容で、現代のSFでもよく使われる設定の走りのようなドラマでした。

塩沢ときはその二人の秘密を目撃し詮索するおばさん役で、「見たわよ見たわよぉ~」が決め台詞でした。このドラマは、残念ながら15回で打ち切りとなってしまっています。その後、1984年『ライオンのいただきます』にゲスト出演したことをきっかけに、塩沢ときはバラエティにも活躍の場を広げます。

画像からも分かる通り、独特の髪型と大きなメガネ、そして上品なしゃべり方とあけすけなトークの内容とのギャップが人気となりました。そのキャラクターはテレビ界に確固たる位置を占め、数々の名言(主に下ネタですが)も生まれました。

1984年以降に出演したドラマをいくつか見てみると、『夏・体験物語』(1985年)、『同級生は13歳』(1987年)、『世にも奇妙な物語』(1991年)などがあります。『夏・体験物語』では寮長を、『同級生は13歳』では校長先生を演じています。

このような活躍の裏で、画像からはわかりませんが1985年から、塩沢ときはさまざまな病気に襲われていました。病と闘いながら女優として仕事を続けていましたが、2007年5月17日、79歳で亡くなりました。死因はスキルス性胃がんだったそうです。
生涯独身で墓は事前に自分で準備

晩年のバラエティで見られる派手なイメージに対して、私生活は質素だったと言われます。生涯独身で、借家での生活を続けました。塩沢ときは、亡くなる数ヶ月前に、塩沢家の菩提寺がある長野県飯田市の霊園に墓を建てていました。注文した墓石は、特徴ある自身の髪型を模したような丸みのあるデザインでした。また、本名ではなく、塩沢ときの名前が刻まれています。
塩沢ときの死因はがんだった
直接的な死因はスキルス性胃がん

塩沢ときが亡くなったのは2007年5月17日でした。死因はスキルス性胃がん。東京都目黒区の病院で亡くなっています。若い頃から3度にわたってがんを克服した自身の経験から、「がんは治る」と語っていましたが、正常組織に染み渡るように浸潤するスキルス性のがんには残念ながら勝てず、それが死因となってしまいました。塩沢ときのがんとの戦いを振り返ってみましょう。
晩年には乳がんが見つかる
1985年、塩沢ときは57歳の時に右乳がんを患いました。風呂上がり、顔や首に塗っていた乳液をたまたま胸にもつけた時、右胸にしこりを見つけたそうです。がんだと直感し、すぐに手術を受けました。無事に成功し、その後も、ドラマや映画、舞台などで仕事を続けています。女性の50代は、乳がんが死因となるケースは多くあります。この時は早期発見が幸いしたといえるでしょう。

がんではありませんが、1999年、71歳の塩沢ときは、骨粗鬆症を患っています。完治するまで5年間、闘病しながらもドラマなどに出演を続けていました。しかし、ようやく骨粗鬆症が完治した2004年、さらなる悲劇が塩沢ときを襲います。

2004年、76歳の時、今度は左胸に違和感を覚え、前回の執刀医に診察してもらったところ、左乳がんが判明。ごく初期だったため、乳房を摘出せずに治療する方法も提案されたそうです。女性として、また女優として、乳房摘出はやはり勇気のいることだったに違いありません。乳房を残しての治療も、充分選択肢としてはありえたでしょう。
生きるために全摘を選択

しかし塩沢ときは、「ありったけ取ってください」と乳房の全摘出を選択。手術は無事に成功し、回復後は再び元気にメディアに姿を見せています。今でも日本人の死因の一位として恐れられるがんですが、塩沢ときは、「がんは治る」という前向きなメッセージを身をもって発してくれたといえるかもしれません。また、何としても生きようという、塩沢ときの強い意志をその生き様から感じ取ることができます。
若い頃の塩沢ときは舌がんに!
30歳で舌がんになり治療で総入れ歯に
実は塩沢ときは、30歳の時に舌がんにかかっています。仕事での撮影後、持ち帰った自分の写真を見て、「なんか痩せた?」と感じたそうです。その晩の食事の後、口の中にチクッとした違和感を覚え、舌の裏側を調べてみると、まるで鶏の皮のようにブツブツがいっぱいできているのを発見します。1965年の『怪獣大戦争』出演時の画像。この頃にはすでに舌がんを克服していたのです。

翌日に病院に行き、さらにその翌日に手術。当時最新だった放射線によるがん治療を受けることができたため、舌を切除することは免れました。その代わり、歯は全て抜いて、総入れ歯にしています。どうやら、八重歯に舌の裏が繰り返し当たっていたことが舌がんを招いたようです。ちなみに、近年では舌がんが死因となるケースが増えているそうです。この時も早期発見が幸いだったといえます。
「徹子の部屋」で病を初めて告白

舌がんのことは、20年以上、公にはされていませんでした。今でこそ、がんにかかったことを告白する芸能人は多くありますが、当時はそういう人は少なかったと思われます。若い頃に舌がんにかかっていたことと、その時に総入れ歯になってしまったことを告白したのは、1981年に「徹子の部屋」に出演した時でした。
黒柳徹子の勧めで自叙伝を発表
「徹子の部屋」では、若い頃からの恋愛体験も披瀝しています。性行為を間接的な表現で語る名言も生みました。その後、黒柳徹子の勧めで、自らの体験を本にして出版します。1985年出版の自叙伝『愛ときどき涙-ガンも男も乗り越えて、いま青春まっただ中』には、若い頃に付き合った男性が実名で書かれており、いわゆるスキャンダルな告白もあったため、その赤裸々な内容が話題を呼びました。

本の帯の画像も、髪型とメガネが印象的です。1988年にも、『ときさんのいつだっておんな盛り花盛り―泣いても笑っても、いいじゃございません?!』というタイトルの本を出しています。こちらもなかなか過激な内容でした。60歳で「おんな盛り」と言い切るところに凄さを感じます。副題の「泣いても笑っても、いいじゃございません?!」というのも、塩沢ときらしい名言です。
内容(「BOOK」データベースより)
結婚って、やっぱり女の“幸せ”なんですかね、好きになったら、“不倫”もヘッタクレもございません、他人の男でも、いい男は欲しくてたまらないわよねえ、男を奮い立たせるのは女の腕ですわよ、女は美味しいセックスを味わなきゃダメ―などなど、ただいま青春まっ最中のときさんが、歯に衣着せず明かす女の本音と泣き笑い人生。
髪型とメガネで塩沢ときの似顔絵だと分かりますね。ちなみに、黒柳徹子と塩沢ときは仲がよかったらしく、2005年5月12日放送の「徹子の部屋」に塩沢ときが出演した際には、お互いの髪型についての話に花が咲いていました。この「徹子の部屋」が塩沢ときの最後のテレビ出演となってしまいます。その後、塩沢ときは、亡くなるまで黒柳徹子のことを気にかけていたといいます。
塩沢ときの髪型とメガネが超個性的!
あの髪型は発砲スチロールで制作?
塩沢ときと聞くと、あの大きく左右に張り出した独特の髪型を思い浮かべる人が多いでしょう。実はあの髪型は、発泡スチロールの芯を入れて作っていたそうです。「凄いお家から出てくる人を羨んで」このような髪型にしたという発言もあり、デヴィ夫人に憧れて、それを真似ようとしていたのではないかといわれています。

デヴィ夫人といえば、東洋の真珠と呼ばれたほど若い頃とてもきれいな方で、塩沢ときとはタイプが違いますが、メガネを掛けていない頃は、近所に住んでいるお姉さんといった雰囲気でした。

やがてこの髪型が塩沢ときのトレードマークとなり、どんどん大きくなっていきました。頭を斜めにしないとトイレに入れなかったという、ウソか本当か分からないようなエピソードもあります。また、飛行機に乗った時、CAから髪に触らせてくれと頼まれたこともあるとか。
ド派手で大きいサングラスが印象的

塩沢ときと聞いてもう一つ思い浮かべるのは、ド派手で大きなサングラスではないでしょうか。実にいろいろな種類のメガネをつけてテレビに現れてくれました。この時代、大きなメガネをかけていると、「塩沢ときか!」と突っ込まれたくらいです。それだけ、メガネがキャラクターの一部として知れ渡っていたのでしょう。

今でも、小さな子どもが大きなメガネをかけている画像などには、「塩沢とき」というタグがついていることがよくあります。子供が大きなメガネをかけている画像はかわいいです。それだけメガネのインパクトが大きかったということですね。
塩沢ときの画像まとめと名言集
インパクト大!な塩沢ときの写真集
塩沢ときの経歴でよく語られるのは、1972年、44歳の時に出演した『愛の戦士レインボーマン』での怪演ぶりです。アフリカからやってきた敵の魔女・イグアナ役を、自分で考案したメイクや衣装で演じました。

インパクトのある画像です。「汚れ役ではないか」という周囲の意見もあったようですが、塩沢とき本人は大いに楽しんで演じていたとのことです。若い頃の清楚な雰囲気も残っています。若い頃の清楚な雰囲気も残っています。
魔女・イグアナは、主人公・レインボーマンを倒すために呼ばれた殺人プロフェッショナルチームのリーダー。血が好物で、光が弱点という設定でした。
目力はすごいです。土の中に隠れたレインボーマンを探すため、なぜか豚のような鼻になるシーンもありました。

鼻が豚というシュールな画像です。ちなみに、出演したのは第14話から第25話。魔女・イグアナは、最後、戦いの最中に朝日を浴びて絶命してしまいます。
当初は復活も予定されていたようですが、塩沢ときのスケジュールが合わず、残念ながら実現しませんでした。本人にとっても思い出に残る役だったかもしれません。
死ぬより最悪なことはないと名言を残す
若い頃からがんと戦ってきたその壮絶な人生経験から、塩沢ときはいくつもの名言を残しています。

皆様にももっと自分を大事にしてほしい。人に遠慮なんてしていたら、早期発見なんて無理。がんになったことのない人はわからないかもしれないけれど、自分の肉体には敏感でいなきゃダメ。『おかしい』と思ったら仕事なんておいて明日病院に行かなきゃ。そのくらい、わがままにおなんなさいね。
これはシニア向けに健康食品や健康器具を販売している会社のインタビューに答えた時の発言です。がんを乗り越えた人ならではの名言です。さらには、次のような名言も残しています。

死ぬことより最悪の事なんてない。生きているってことだけで素晴らしいじゃないか。
塩沢ときの人生はがんとの戦いだった!
塩沢ときの人生を振り返ってみると、30歳で舌がん、57歳で右乳がん、76歳で左乳がんと、若い頃からまさにがんとの戦いであったことが分かります。最期、79歳で亡くなった死因はスキルス性胃がんでした。今でも日本人の死因の1位であるがんを3回も克服したことは、がんと戦っている人にとっては大きな励みだったはずです。「生きる」ことについての名言を残したのも頷けます。

がんと戦いながら女優として生き抜き、たくさんの画像と勇気を与える名言を残してくれた塩沢ときの人生を振り返ってみました。これからは安らかに眠れることを祈りましょう。
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