小林麻央が治療した病院は?誤診で海老蔵が提訴?業務停止命令など
若年性の乳がんで亡くなったフリーアナウンサーの小林麻央。そんな小林麻央に関して誤診という噂があります。その誤診が原因で亡くなったとして夫の市川海老蔵が病院を提訴したという噂もあるようです。最初に診察を受けた病院の誤診説やがんとの戦いについてまとめました。
目次
小林麻央は治療した病院で誤診されていた?
小林麻央は2017年に34歳という若さで乳がんのため亡くなりました。そんな小林麻央の闘病生活はブログなどを通して報じられており、同じがんで戦う人たちに勇気を与えていました。

しかし、この小林麻央のがんに関しては、最初の段階で発見されていたという情報があるのです。検診のときに乳がんの可能性をもっと疑っていれば小林麻央は助かったかもしれないという声があるだけに、病院の誤診だという意見もあります。

そのため、小林麻央の夫である市川海老蔵が病院を提訴するという噂まであったそうです。小林麻央が病院で検診を受けたときに、最初はどのような診断をされていたのでしょう。その問題となった病院は慶應義塾大学病院という噂もあるのですが、本当に慶應義塾大学病院による誤診だったのかを調査しました。
病院による誤診が気になる小林麻央の経歴
小林麻央は1982年7月21日生まれで2017年6月22日に乳がんのため34歳で亡くなっています。小林麻央は新潟県小千谷生まれで東京都出身です。セント・フォース所属のフリーアナウンサーであり、タレントとしても活動していました。

姉もアナウンサーとして活躍し、現在は結婚を機に芸能界を引退した小林麻耶です。また、夫は歌舞伎俳優の十一代目市川海老蔵です。子供は男の子と女の子がそれぞれ一人誕生しています。
幼少期の小林麻央は父親の仕事の影響から引っ越しすることが多く、さいたま市や西宮市、荒川区と移り住んでいます。また、学校に関しては国学院高等学校を卒業して上智大学文学部心理学科を卒業しています。

姉も大学時代に出演していた明石家さんま司会の恋愛トーク番組「恋のから騒ぎ」に出演し、小林麻央は注目されました。天然っぽくちょっとぶりっ子な姉に対して、落ち着いた雰囲気名がらたまに爆弾発言をする妹の小林麻央も番組の盛り上げ役となっていました。
小林麻央は姉と同じく「恋のから騒ぎ」で注目された
大学を卒業した小林麻央は、テレビでのそのトーク力や美貌から芸能事務所にスカウトされておりセント・フォース所属のタレントになりました。そして、フジテレビ系「めざましどようび」のお天気キャスターを務めることになりました。
2004年に「ジャンクSPORTS」の「ファンタスティックストーリー」を担当し、同年6月には「ピンクヒップガール」でドラマにも出演しています。その後もドラマには定期的に出演しており「東京フレンズ」や「スローダンス」など月9ドラマに出演するほどに成長しました。

フリーアナウンサーという立場ではあったものの、基本的にはフジテレビ系の番組に出演する状態が続いており専属状態でした。しかし、2006年1月に日本テレビ系「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。」に出演したことで、その後はフジテレビ系以外のTV番組にも多く出演するようになりました。
キャスターとして安定した仕事ぶりを発揮した
最初はまだ女子大生という感じだった小林麻央も、少しずつ本格的な仕事をする中で最初の頃から見違えるような本格的なアナウンサーとしての姿を見せるようになりました。その中で2006年10月2日から日本テレビ系ニュース番組「NEWS ZERO」のサブキャスターとして月曜から木曜日を務めることになりました。

また、2007年4月12日からはフジテレビ系バラエティ番組「奇跡体験!アンビリバボー」の進行役も務めるようになり、最初とは違って非常に重要な進行役のしごとも務めています。
市川海老蔵との交際と結婚
このように順調にキャスターやタレントとして活動していた小林麻央は、2009年11月19日のイベントの記者会見で歌舞伎俳優の十一代目市川海老蔵との交際を認めることになります。

市川海老蔵との交際のきっかけは、NEWS ZEROにおいてインタビューをしたことがきっかけになっており、記者会見の中で近日中に婚約することも合わせて発表しています。そして、2010年1月29日に市川海老蔵との婚約発表を行いました。

また、小林麻央は2011年7月25日に第一子である女の子を出産し、2013年3月22日に第二子である長男が誕生しました。歌舞伎俳優としては待望の跡継ぎが誕生した形にもなり、子供が市川海老蔵を継ぐ存在になるのかといった話題も起きていました。
最初の病院の検査で怪しい影が確認されていた
小林麻央は長男を出産してから約一年語に乳がんの兆候が確認されていたそうです。しかし、小林麻央本人も最初の段階ですぐに対応できなかっため、後にがんが深刻な状況へと変化しています。しかし、この最初の診察において一部では病院の誤診があったのでは?という噂があるのです。

というのも、小林麻央は2014年2月に人間ドックを受けた際に、乳房にしこりが発見されていたのです。しかし、最初は人間ドックの担当医が「がんの可能性は五分五分」という診断をしており、小林麻央の乳腺専門医の知人2人も「担当医がオーバーすぎる」とアドバイスしていたそうです。

さらに問題だったのは、再検査した際にも担当医は「がんではない」と診断していたのです。小林麻央自身も長女の授乳時から2年以上の間も乳腺の状態を良くするための母乳マッサージの通いケアをしていたことが、自分ががんだとは思わない原因になってしまったのです。
誤診問題はどこの病院だったのかと話題に
結果的に半年以上経った2014年10月に同じ箇所にしこりが発見されて、脇への転移まで確認されることになります。そして、このとき初めて小林麻央は「がん」だと診断されたのです。

この段階で小林麻央のがんの進行はかなり進んでおり、年齢的にも若いことからそのがんの進行を止めることは間に合わなかったといえます。最初の人間ドックで異変が感じられたときから3年半ほど経った小林麻央は、34歳という若さで亡くなっています。

夫である市川海老蔵は、小林麻央が亡くなってから最初に診断を下した病院に対して訴訟を起こす事態になりました。市川海老蔵は病院にたいして治療費の3000万円を未納の状態にして、病院側を訴訟するような形になっていました。

小林麻央が診察を受けていたのがどこの病院だったかという問題もあります。このどこの病院だったかというのは、虎の門病院や聖路加国際病院、慶應義塾大学病院だと言われています。
どこの病院かという噂には慶應義塾大学病院説が
こんかいの誤診については慶應義塾大学病院の名前が一番有名となってしまったようですが、時系列を追ってどこの病院で何があったのかという部分を確認しましょう。

まず、小林麻央は2014年2月に「PL東京健康管理センター」において人間ドックを受けています。このときに小林麻央の左乳房に「しこり」が見つかっており「精査すべし」という診断を受けたそうです。そこで、小林麻央が向かったのが「虎ノ門病院」でした。

ところがここで診察を受けたところ、小林麻央のしこりは「良性の乳腺線維腺腫」と診断されて、半年間の経過観察という形になりました。しかし、疑わしい可能性があるため3ヶ月後に再受信を勧められたそうです。このときに小林麻央は多忙だったため、再検査が8ヶ月後の2014年10月となってしまったのです。

この段階で、乳がんとなっており脇のリンパ節にまで転移していたという状態になったわけです。つまり、先程の情報を細かく確認するとはっきりとどこが誤診したのかとは言いにくい問題であることがわかります。

何よりも小林麻央は、虎ノ門病院の担当医に早期の手術を勧められたものの、乳房の温存を望んだことからかかりつけである虎ノ門病院を離れたという話があるようです。そのため、どこの病院が誤診かというのも大事ですが、小林麻央も自分がそこまで深刻な乳がんだったと考えていなかった可能性があります。
市川海老蔵が最後に希望を託した病院が業務停止に
問題の重大さを重く見た夫の市川海老蔵は、小林麻央にあらゆる治療を行わせています。ときにはスピリチュアルな「気功」にまで頼っていたといわれと襟、民間療法にもたよっていたそうです。

そして、小林家と縁のある先生がいる聖路加病院に入院したものの、膿が出るほどがんは進行していたそうです。しかし、ここでも家族と医師の意見がうまくまとまらず、またもや手術せずにこの病院を去っています。

そして、最後に向かったのが慶應義塾大学病院であり、ここで手術を受けて、抗がん剤治療や放射線治療を受けていたそうです。しかし、小林麻央の死後にこういった治療が間違いだったのではと疑問に感じた市川海老蔵が、慶應義塾大学病院を相手に訴訟しようとしたそうです。

結果的に慶應義塾大学病院を本当に訴訟することはなかったようですが、入院5万円と個室料金をあわせたもの、そして保険適用外の治療を合わせた3000万円ほどの医療費を支払ったのかは不明となっています。
業務停止となった病院はがんとは直接関係がなかった?
そういった話と同時に、ある病院が業務停止命令を受けたという話があります。このことが小林麻央の誤診の話と絡んで慶應義塾大学病院が誤診のせいで業務停止状態になると話が広がっていたようです。

ところが、これは慶應義塾大学病院は関係のない話で、市川海老蔵がさまざまな治療手段を探している中で診察を受けていた東京の渋谷区内にある内科クリニックだったそうです。

ここが業務停止命令を受けた理由は、無届けのさい帯血医療を行っていたとして業務停止命令を厚生労働省から受けていたのです。出生児のへその緒を使ったさい帯血の投与は、再生医療に効果があると言われています。しかし、これはまだ十分に医学的な検証が済んでいないため、感染症のリスクがあると考えられています。

そのため必ず届けを出して管理下のもとで行われる必要があり、無届けの場合は医療ミスにつながる可能性もあります。内科クリニックはこの事実を認めて謝罪しており、一時的に業務停止という状態になりました。
小林麻央はこの病院で「水素温熱免疫療法」を受けていた
このように誤診を受けたのはどこの病院という噂が、様々噂のきっかけになっていました。そして、この業務停止命令を受けた内科クリニックで、小林麻央は「水素温熱免疫療法」という聞き慣れない治療を受けていたのです。

高濃度水素水を用いた温熱療法と言われているこの治療法ですが、院長が自ら「H2アクアサーミア」と命名しているように、医学的効果には疑問のある民間療法に近い治療法だった可能性あるのです。

いろいろと難しい理論を説明立てているものの、実際にすることは「水素水の入ったお風呂に入る」ということなのです。しかも、このクリニックのホームページによれば「80人中79名ががんの進行を遅らせた」というような研究実績まで披露していたと言われており、かなり胡散臭いものだったようです。

先述の通り、気功などを体験してでもがんから立ち直ろうとしていた小林麻央は、こういった医学的に証明されたとは言えない方法にまで頼っていたと言われています。一部では、最初からちゃんと一般的ながん治療を受けていれば、34歳という若さで亡くなることはなかったのでは?と言われています。
どこかのタイミングで手術していれば助かったかも
このように業務停止命令を後に受ける病院にまで通っていた小林麻央。この業務停止命令の病院は最終的な一か八かといえるものだったとはいえ、最初から手術に踏み切っていれば助かったと惜しむ声が多いわけです。

また、夫である市川海老蔵もこのような業務停止命令を受けるような病院を頼ったり、スピリチュアルな方法でがんを治そうと試みるなど、様々な問題が小林麻央の命を縮めたと言われています。

最初の人間ドックの段階で「乳がんの可能性は五分五分」という診断を受けていたわけです。命にも関わるものだけに、虎ノ門病院で診察を受けたときに問題はないと診断されても、セカンドオピニオンを受けたほうが良かったと言えるでしょう。

また、どこかの段階で手術を受けるべきだったこと、また最後の慶應義塾大学病院に至るまでに複数の病院で診断を受けるべきだったわけです。何よりも小林麻央自身も経過観察となったときに、本来の再検査の予定日を大きく過ぎてから再検査を受けて乳がんと脇への転移が確認されており、これも問題だったといえます。

半年後の再検査の予定を8ヶ月後のタイミングで再検査を受けており、この差が命運を分けたと言えます。とはいえ、虎ノ門病院の医師は何度も乳がんと診断できるタイミングで見逃しており、授乳中のマンモグラフィでは乳がんが診断しづらいという問題点を見逃していた可能性もしてきされています。
どこまでも悔やまれる小林麻央の診断結果
どこかで別の病院で検査を受けていたら…と言わざるを得ない結果だったといえます。中途半端な判断で誤診されるよりも、複数の病院で検査を受けたり、自らの授乳中という状況を詳しく説明して、最初の人間ドックでの診断を他の病院でしつごいぐらい伝えたほうが良かったのかもしれません。
また、女性として乳房を失うということをすぐに受け入れられずに手術が遅れたというのも問題だったといえるでしょう。小林麻央や市川海老蔵側としては、あの病院じゃなければ、あの医者じゃなければという後悔が生まれた結果だったといえますが、自分の体を守れるのは自分だけという大前提をもっと重く考えるべきだったと言われています。

最後の慶應義塾大学病院で手術を受けたと言われている小林麻央ですが、遅すぎたといえるかもしれません。誤診と結論付けるのは簡単ですが、がんという病院を発見するのは難しく、見落とす可能性は「4割」近くあると言われています。小林麻央の闘病生活だけでなく、こういった誤診や見落としに関しての事実も我々は重く受け止めるべきなのかもしれません。
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