夏目雅子の死因・夫の伊集院静との関係まとめ!姪は宝塚で美人の風間柚乃!
悲劇の女優として未だに語り継がれる夏目雅子。その美しい容姿から男女関係なく支持されていた夏目雅子ですが、急性白血病というあまりにも突然な病気によって亡くなっています。27歳という若すぎる年齢と、その死因から未だに夏目雅子が生きていたら…という声があがるほど。そんな夏目雅子の死因や、夫である伊集院静との関係、また姪の存在や名作「西遊記」や「鬼龍院花子の生涯」について合わせて紹介します。
目次
- 伝説の女優・夏目雅子の死因とは
- 悲劇的な死因を迎えるまでの夏目雅子
- 夏目雅子の家族
- 夏目雅子の姪は宝塚歌劇団員
- 夏目雅子の芸能界入り
- 夏目雅子の学歴
- デビュー当時の夏目雅子はダメ女優だった
- 夏目雅子と夫になる伊集院静の出会い
- 女優として着実に実績を積み上げた夏目雅子
- 悲劇の死因後も受け継がれるあの「西遊記」に出演
- 夏目雅子と西遊記
- 西遊記で夏目雅子は本当に坊主だった?
- みんなで夏目雅子と仲良くなろうと出し抜き合い
- その死因まで一女優にこだわった夏目雅子
- 鬼龍院花子の「なめたらいかんぜよ!」で流行語に
- 夏目雅子の夫になる伊集院静との結婚
- 夏目雅子は不倫の末に伊集院静と結婚していた
- 夏目雅子の死因となる病気の発病
- 急性白血病という夏目雅子の死因
- もう少し時代が違えばその死因は防げたかもしれない
- 最終的なその死因と死因にまつわる噂
- その死因から母や兄が行ったその後の活動
- 惜しまれる夏目雅子の一生
伝説の女優・夏目雅子の死因とは
昭和最後の名女優、悲劇の女優など、さまざまな形で語り継がれる女優の夏目雅子。27歳という若さでこの世を去った彼女は、いまだにその悲劇的な死因も合わさって伝説として語り継がれています。

改めてその夏目雅子の功績とその死因について調査してみました。そして、夏目雅子の夫である伊集院静との関係や、姪である風間柚乃についても紹介します。

そして、夏目雅子の名作として語り継がれている「西遊記」や「鬼龍院花子の生涯」などの名作についても紹介しましょう。夏目雅子が西遊記や鬼龍院花子の生涯での演技はどのようなものだったのでしょう。
悲劇的な死因を迎えるまでの夏目雅子
夏目雅子は1957年12月17日生まれで、1985年9月11日に27歳という若さで亡くなっています。本名は西山雅子で旧姓は小達雅子というそうです。

夏目雅子の出生地は東京都港区六本木で、出身地としては神奈川県横浜市中区山手になっているようです。女優として1976年ごろから活動し、10年ほどの活動期間は「西遊記」や「鬼龍院花子の生涯」を含め、多くの名作に溢れています。

もともと、夏目雅子の生まれた小達家は、徳川将軍家の御典医で、四ツ谷に薬草園を拝領していたという、由緒ある家柄だったようです。

そして、明治時代になると「赤門堂」という薬草問屋を初めて、昭和8年には株式会社「亀甲屋」と改めたそうです。戦後は、お店は焼けてしまって一から出直したそうですが、改めて雑貨屋として、順調に成功し、1967年ごろには亀甲ビルとなり、高輪に引っ越すまでは、夏目雅子もこのビルで過ごしていたようです。
夏目雅子の家族
また、夏目雅子の母親であるスエは群馬県沼田市出身で、夏目雅子には3歳年上の兄・小達一雄がいて、映像ソフト製作と芸能プロダクションである「スイート・ベイジル・エンタテイメント」の元社長なんです。

また、医療用カツラの開発にも携わり「ヘキサ・プロセス株式会社」の社長も務めたようです。その後は、夏目雅子ひまわり基金事務局長も務めています。

夏目雅子の急性白血病という死因に絡み、その後は骨髄移植の啓発とドナー登録を呼びかけ、臓器移植に関する知識の啓発に関する活動を、現在は行っているそうです。
実は義理の姉も悲しい死因で亡くなっている
また、夏目雅子が亡くなったあとには、夏目雅子の友人でもありキャンディーズのメンバーで、歌手として活動していた田中好子と夏目雅子の兄は結婚しています。
ただし、田中好子も、2011年に55歳という若さで、19年間に及ぶ闘病の末、乳がんから起きたがんの複数の転移という死因で亡くなっています。
また、田中好子の最後のメッセージでは、義妹である夏目雅子のように、社会に恩返しするような活動をしたかったというメッセージもあったようです。
夏目雅子の姪は宝塚歌劇団員
ちなみに、夏目雅子の姪である風間柚乃は宝塚歌劇団月組に所属する男役です。夏目雅子の姪であり、2014年に宝塚歌劇団のちょうど100期生として入団しています。
姪も宝塚歌劇団で人気の男役
夏目雅子の姪の父親は、プロゴルファーの小達敏昭で、田中好子の姪にもあたります。
ちなみに、姪は夏目雅子や田中好子の影響を受けたわけではなく、トップスターの瀬奈じゅんに憧れて、宝塚の男役になりたいと思ったようですね。
とはいえ、夏目雅子の姪であり、田中好子の姪というのは、非常に芸能界も広いようで狭いような不思議な関係にも見えますよね。
夏目雅子の芸能界入り
東京都港区旧高樹町の日赤病院で生まれた夏目雅子。日用品雑貨の店を経営し、貿易商の肩書を持つ父親のもとで生まれ、裕福な家庭だったようです。

実際に、亀甲屋が神奈川県横浜市中区山手に移動した際は、モービル石油の日本支社長の旧宅だったようで、敷地は250坪もある豪邸だったそうです。また、千葉県館山に別荘を持ち、夏目雅子はいわゆるお嬢さんと呼ばれるような存在だったそうです。

小学3年生のときに、テレビドラマ「チャコちゃんハーイ!」を見た夏目雅子は、そのことがきっかけで女優を志すことになります。

しかし、夏目雅子は母親にはその夢を猛反対されてしまったそうです。しかし、改めて17歳のときにヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画「ひまわり」を映画館で見て、ソフィア・ローレンに憧れて、その夢を再度抱くようになったようです。
夏目雅子の学歴
夏目雅子は東京女学館小学校、東京女学館中学校、そして東京女学館高等学校を卒業したようです。

学生時代の夏目雅子は「ダテピン」というあだ名だったようで、テストの点数が悪いときに限って、みんなに見せるというユニークなところがあったようです。

1976年に東京女学館短期大学に進学し、そのときはフランス語を専攻していたようです。また、この入学直前には、父親の友人のツテで、タオルメーカーの「中野株式会社(現在のUCHINO)」のコマーシャルに出演しているんです。
この活動は、夏目雅子のデビュー前の初めての挑戦だったようです。ただし、この学校はかなり厳しい学校だったようで、夏目雅子は最終的に短大を中退してしまったそうです。
デビュー当時の夏目雅子はダメ女優だった
大学を中退した年に、夏目雅子は日本テレビ「愛が見えますか…」で、486人の応募者の中から、盲目のヒロイン役に選ばれました。

このときは、まだ本名の小達雅子名義でのデビューだったようです。しかし、このときの夏目雅子の演技は、監督たちを満足させるものではなく、ときには57回連続でNGを出されるようなものだったようです。
その境遇もあわせて、夏目雅子は「お嬢さん芸」とまで言われたほどだったようで、まわりからもその裕福な家庭も含めて、お嬢さんという目で見られるのは、ずっとコンプレックスとして残ってしまったようです。
夏目雅子と夫になる伊集院静の出会い
1977年から広告として採用された山口銀行の広告は、その後8年間登場し続けることになります。また、同年にはカネボウ化粧品のキャンペーンガールになり、この仕事が「クッキーフェイス」という形で注目されることになります。
このころから仕事が本格化したことから、名前を本名から芸名の夏目雅子に変更したようですね。また、ティナ・チャールズが歌う同CMの使用楽曲「Oh!クッキーフェイス」を日本語でカバーし、歌手としてもデビューしています。

そして、このときのCMのディレクターが後の夫になる、伊集院静だったそうです。これが、夏目雅子と後の夫の伊集院静の出会いだったようですね。
女優として着実に実績を積み上げた夏目雅子
TBSの「すぐやる一家青春記」で2回目の連続ドラマ出演を果たすと、東映映画「トラック野郎・男一匹桃次郎」にヒロインとして出演し、映画初出演も果たしています。
後に悲しい死因で亡くなるとは思えない輝きぶり
このシリーズの監督である鈴木則文は、新人に近いような女優や歌手を起用するのが定番で、夏目雅子を起用した理由も、カネボウ化粧品のポスターを見たことがきっかけだったようです。
ただし、夏目雅子は映画でシーンを撮影するときに鳴らされる、カチンコの存在も知らないほどの素人ぶりだったようで、まだまだ初々しい新人女優という感じだったようです。

完全な素人といえる夏目雅子の存在は、撮影現場では賛否両論があったようですが、それでもその中に光る夏目雅子の輝きを信じた人物たちと、決して諦めない夏目雅子の強い気持ちがあったようです。
悲劇の死因後も受け継がれるあの「西遊記」に出演
そんな夏目雅子が後にまで語り継がれる名作となる「西遊記」に出演することになります。この1978年に始まった西遊記で、夏目雅子は三蔵法師役を演じており、その頭の形の良さが、三蔵法師の神々しい美しさと合わさって、大人気となりました。
その死因を巡って共演者たちも未だに涙を流す
このドラマ西遊記は、孫悟空役に堺正章、沙悟浄に岸部シロー、猪八戒に西田敏行などが起用され、いまだにこの初代西遊記は名作として語り継がれています。

後にこの西遊記はリメイクされており、三蔵法師役に宮沢りえが起用されたものや、「新・西遊記」として、牧瀬里穂が三蔵法師を演じたもの、2006年にはSMAPの香取慎吾や孫悟空、三蔵法師に深津絵里が演じたものが放送されています。
この西遊記はその出演したメンバーだけでなく、特撮シーンに円谷プロダクションや東宝映像が関わったことは大きな魅力でもありました。

主題歌がゴダイゴの「ガンダーラ」が使用されたことなど、様々な理由から、度々再放送されファンが多い作品なんです。
夏目雅子と西遊記
西遊記は日本テレビ開局25周年を記念した番組であり、1978年は日中平和友好条約が調印された年ということもあり、なんと中国ロケが行われており、中華人民共和国中央広播事業局が協力している作品なんです。
また、西遊記が放送された時間はNHK大河ドラマと同じ日曜8時だったことから、その大河ドラマに負けないように当時の金額で10億円という巨額の予算が投じられていたようです。

この放送前に、コメディ人形劇「飛べ!孫悟空」、フジテレビアニメ「SF西遊記スタージンガー」がスタートしており、ドラマ放送前から西遊記は子供たちにも関心が高まっていた作品だったといえます。
また、ややギャラも高めになっていたようで、このドラマにかけるテレビ局の思い入れが感じられる作品ともいえますよね。ただし、当初は、孫悟空役には若山富三郎、三蔵法師に坂東玉三郎、猪八戒に高見山大五郎、沙悟浄に仲代達矢というまったく違うものの予定だったようです。
西遊記で夏目雅子は本当に坊主だった?
夏目雅子が演じた三蔵法師は、お坊さんなわけなので、本来は坊主頭です。そのため、製作記者会見では、夏目雅子が断髪式をしたというボーズで写真を撮ったものの、実際の収録では帽子やカツラをかぶっており、頭を坊主にしていたというわけではなかったようです。
また、面白いのが共演者であるメインキャストの4人は、撮影の休憩中も4人で行動することが多かったようです。これには、男性3人たちが、それぞれを出し抜いて、夏目雅子と仲良くなろうとするのを防ごうという、それぞれの思惑が働いていたようです。

そのため、衣装を着替えている間に、誰かが夏目雅子を食事に誘うか不安で、着替えすらせずに、そのまま衣装のままで行動するような休憩だったようです。
みんなで夏目雅子と仲良くなろうと出し抜き合い
また、撮影をしていたときは、男性3人組はかなり多忙な時期であり、撮影の合間に堺正章の部屋で点滴で栄養剤を受けるような生活だったようです。そのため、3人は「日本点滴会」を結成していたほどなんだとか。
撮影するロケ地では、トイレが無いこともあり、なんと堺正章は夏目雅子のために自費でキャンピングカーを購入し、夏目雅子のためにトイレを用意したなんてエピソードもあったようです。

他にもこの西遊記に関するエピソードは本当にたくさん存在するようで、メインキャストの4人はそれぞれ思い出を振り返ることもあり、夏目雅子が急性白血病という死因で亡くなってからも、当時の思い出を語る場面が多くあるようです。
その死因まで一女優にこだわった夏目雅子
コミカルなドラマだった西遊記に出演したこともあり、夏目雅子はバラエティ番組などに出演する機会も増えました。

しかし、夏目雅子はあくまで女優をメインと考えており、所属事務所をP&M事務所から、文学座と深いつながりのある其田事務所に移籍しました。このことから、夏目雅子は女優業がメインとなり、バラエティ番組などの出演はほとんど無くなったようです。
そんな転換期となった夏目雅子の西遊記の出演後、1979年に夏目雅子の父親がスキルス性胃がんで入院、夏目雅子はその手術を医師に止められながらも、見届けたと言われています。手術は成功したものの、夏目雅子の父親は翌年に47歳で亡くなってしまったそうです。
1980年に夏目雅子はドラマ「サンキュー先生」に特別出演、ドラマ「虹子の冒険」ではついに初主演を務めました。
また、演出家の和田勉にその才能を見出され「ザ・商社」にもヒロインとして出演しています。実はこのドラマはNHKにもの製作だったものの、夏目雅子は上半身裸のヌードシーンがあったんです。

このドラマで、そういったシーンを含め、迫真の演技力を見せた夏目雅子は、かつてのお嬢さん女優というイメージを現場でも払拭させ、映画「二百三高地」を含め、様々な難しい作品にも抜擢されることになります。
鬼龍院花子の「なめたらいかんぜよ!」で流行語に
1981年に「野々村病院物語」に出演、NHK大河ドラマ「おんな太閤記」でお市の方として出演し、この年に、夏目雅子はバセドウ病の手術も行ったそうです。
そして、1982年に夏目雅子は「鬼龍院花子の生涯」に出演し、この鬼龍院花子のセリフである「なめたらいかんぜよ!」が流行語になりました。鬼龍院花子の生涯は、夏目雅子の大きな転換期になる作品だったといえます。
また、鬼龍院花子の生涯では、ヌードシーンを別のスタントを立てるものだったのを、夏目雅子が他の女優が自ら脱いでいるのに、自分だけ特別扱いされるのはおかしいという考えから、鬼龍院花子の生涯でヌードシーンを自身が演じています。
このことは、事務所からはかなり反対されたようですが、夏目雅子は鬼龍院花子の生涯でヌードシーンを行うことを強行したようです。そして、この鬼龍院花子の生涯はブルーリボン賞を獲得し、夏目雅子は演技は女優という立ち位置を手に入れたといえます。
とはいえ、夏目雅子はこの鬼龍院花子の生涯のブルーリボン賞の授賞式では、お嬢さん芸でこれからもがんばるというようなジョークもかましたようで、そういった飾らないおちゃめな部分は、現在までの夏目雅子を評価する一つのポイントになっています。
夏目雅子の夫になる伊集院静との結婚
1983年に大河ドラマ「徳川家康」で淀君役で出演し、1984年に作家である伊集院静と結婚したことを発表しました。そして、神奈川県鎌倉市由比ガ浜で生活を始めたようです。

結婚式は、非常に限られたうちわだけで行われたもので、鎌倉長谷寺近くにある寿司店で行ったそうです。また、新婚旅行は韓国に行ったようですね。
夏目雅子は不倫の末に伊集院静と結婚していた
実は伊集院静には妻子が居る身だったようで、夏目雅子と夫になった伊集院静は長い不倫関係の末の結婚だったようです。
また、夏目雅子はまだ夫ではなかった伊集院静との間にできた子供を、複数回堕胎しているという事実もあったようです。
夫の伊集院静は、夏目雅子をモデルにしたと思われる作品を複数残しており、長編小説の「潮流」は広告業界を舞台に夏目雅子との出会いをもとにした小説だと言われています。
また、夏目雅子が急性白血病という死因で亡くなった25年後に、「真っ白な壁」という、夏目雅子との思い出を綴った手記も執筆しています。ここには、夏目雅子の両親が亡くなるまで、夏目雅子との思い出などの経緯の作品は作らないという思いがあったようです。
夏目雅子の死因となる病気の発病
そんな中で、夏目雅子は1985年2月14日の舞台「愚かな女」の公演の最中に、10円玉ほどの口内炎が出来、激しい頭痛などの、極度の体調不良を訴えることになります。
突然すぎるその死因への道程
痛みに涙を流しながら、這ってでも舞台にあがると動こうとする夏目雅子に、共演していた西岡徳馬たちの必死の説得で、翌日に慶應義塾大学病院に緊急入院することになります。

そして、夏目雅子は緊急骨髄性白血病ということが発覚したものの、夏目雅子本人には極度の貧血と告げて、本当の病名に関しては告げられないことになります。

病気のことを知った夏目雅子の夫である伊集院静は、そんな夏目雅子の看病をするために、仕事をすべて辞めて夏目雅子が亡くなるまで、彼女の母親と看病にあたることになります。

このとき、娘の芸能活動にずっと反対で、ほとんど作品を見ることが無かった母スエは、初めて入院する娘とともに、彼女の作品を見ることになります。

夫である伊集院静と結婚するまで、ずっと実家で母親に女優という仕事を認めてもらおうと生活を続けていた夏目雅子は、やっと母親胃自分の作品を見てもらえ、そのことは夏目雅子をとても喜ばせたそうです。
急性白血病という夏目雅子の死因
夏目雅子は西遊記や鬼龍院花子の生涯などで、注目され、女優としてまだまだ多くの作品に関わりたかった夏目雅子。
最後まで急性白血病という死因は隠されることになる
当時は、急性白血病を含め「がん」に関係するような病気は、本人にはあまり告知をしないということが一般的だったようです。

夏目雅子の兄である小達一雄は、急性白血病は抗がん剤の副作用に耐えながら完治を目指すものであり、かなり強い意思が無ければ、それに耐えることが出来ないものであることを、どのように夏目雅子に伝えれば良いのかを悩んだそうです。

そんなとき、舞台の「愚かな女」の演出を担当した福田陽一郎が、病院に訪れ、夏目雅子と福田陽一郎が大喧嘩をしたそうです。激しく叱責し、女優として舞台に立つため、厳しい言葉を投げかけたそうです。
そのやり取りがあった以降は、夏目雅子は最後まで弱音を吐くこと無く、女優として復帰する日を夢見て、治療の日々を送ったそうです。母もかつてとは違い、夏目雅子の女優としての仕事を受け入れ、夏目雅子の作品を何度も何度も見ながら、その演技を褒めて娘を支えました。
もう少し時代が違えばその死因は防げたかもしれない
現在は、急性白血病に関する治療薬が進歩しており、もう少し時代が違えば夏目雅子の死因は急性白血病というものにはならなかったかもしれない。
女優として生きることが死因につながった
特にこの当時の白血病に関する新薬は、副作用が強く、髪の毛は抜けて、30%以上が薬を服用しても命を落とす可能性があると言われたそうです。

当初、この新薬の治療を反対したのは夏目雅子の母親だったようです。かつて女優としての活動を大反対していた母が、髪は女優にとっての命として反対したのは、なんとも皮肉な出来事だったかもしれません。

二度の抗癌剤治療が効果が出ず、新薬での治療に踏み切ることが決まると、兄は夏目雅子に遠回しにその副作用を伝えたようです。しかし、夏目雅子は過去に西遊記で三蔵法師を演じたことから、日本で一番坊主頭が似合う女優として、気にならないという態度だったようです。

しかし、その副作用はまわりの想像を超えるほどの厳しいもので、頭髪はすべて抜け落ち、激しい吐き気、倦怠感、めまい、眼底出血などに見舞われたそうです。
最終的なその死因と死因にまつわる噂
この新薬の効果で白血病の症状は改善され、かなり症状は良くなり始めていたそうです。しかし、1985年8月に風邪を引いてしまい、抗がん剤の治療で低下していた免疫によって、肺炎を併発してしまったんです。
その死因は急性白血病から肺不全という死因に
肺炎になり、意識が混濁し始め、肺不全になり、数日後の1985年9月11日午前10時16分に夏目雅子は27歳という若さでこの世を去ってしまったのです。
母親は、髪のことなど気にせずに最初から新薬での治療を受け入れていたら、その結果は違ったと後悔していたそうです。しかし、新薬も死亡につながる可能性があり、非常に危険な賭けであったことは間違いないといえます。
その死因から母や兄が行ったその後の活動
兄は、新薬によって髪の毛が抜けるという副作用を考えて、治療に踏み切れ無い人たちのために、医療用のカツラの事業を開始しました。また、母のスエは基金設立を開始し、夏目雅子の遺産である約4千万円をもとに、1993年12月1日に事業が開始されました。

夏目雅子の死は、その夫や姪を含め、多くの人たちに大きな衝撃を与えました。また、西遊記や鬼龍院花子の生涯という作品が、改めて注目されるきっかけにもなったようです。

夏目雅子の母は2008年に亡くなるまでその活動を続け、兄は現在でも毎年500人から700人に医療用のカツラを無料提供しているそうです。
惜しまれる夏目雅子の一生
夏目雅子の人生には、母親を始め、その父親はや兄、また夫や姪の存在など様々な人物の支えがあったのは間違いありません。
その、死因には、西遊記でのロケで長期間ウイグル地区で撮影を続けたことが、急性白血病の原因という噂もあります。ウイグル地区では当時すでに合計46回もの核実験が行われており、一部では、この長期ロケによる滞在が病気の遠因になったのでは?という意見もあるようです。
また、症状が改善したことから、夏目雅子にせがまれた夫である伊集院静は、近くで開催される花火大会を、病院の屋上から見たそうです。このことも、夏目雅子が風邪にかかり肺炎になった原因と言われており、さまざまな原因がその生命を奪った理由だったようです。

夫である伊集院静はその後に再婚、姪の風間柚乃は現在も宝塚歌劇団で活動中です。姪の風間柚乃の活動や、その西遊記や鬼龍院花子の生涯という作品は受け継がれると同時に、その早すぎる死を惜しむ声は今でも変わることがありません。

20世紀のスター女優としてその名前があがることが多く、変わらない輝きをいまでもその作品で見ることが出来ます。改めて、夏目雅子の作品を見て、その命をかけた作品を見てみるのも良い機会かもしれませんね。
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